大阪こんなとこやでレポート3 〜真田幸村ゆかりの地 編〜


●大阪の陣で徳川家康を追い詰めた人気戦国武将、真田幸村。
  彼のゆかりの地は各地にあるが、終焉の地となった大阪にももちろん残されている。


真田幸村終焉の地 安居神社 かつての豊臣の城 大阪城

大阪こんなとこやでレポート3 〜真田幸村ゆかりの地 編〜 目次

タイトル 旅行日時 都道府県 旅行先・観光したもの 移動
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備考
大阪こんなとこやで3
(真田幸村ゆかりの地)
2012/07/02 大阪 大阪城、豊國神社、志紀長吉神社
三光神社、心眼寺、善福寺(どんどろ大師)
真田山公園、大聖観音寺、安居神社
地下鉄
自転車
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幸村縁の地

戦国武将 『真田幸村』

大阪に住む私が、皆さんに大阪を紹介するというスタンスでお届けするレポートコーナー。
今回はやや趣向を変えて、大阪に点在する「真田幸村ゆかりの地」を歩いてみました。

ご存知「真田幸村」(本名:真田信繁)は、大坂夏の陣にて寡兵を持って徳川家康本陣まで攻め込み、徳川家康を追いつめた武将。
ゲームでも取り上げられているため、戦国武将の中でも特に人気が高い人物です。
(コーエーの戦国無双シリーズでは主役級の扱いなので、ここから入ったファンも多そうです)
大阪の陣で活躍したこともあり、大阪の各地にゆかりの地があるのです。
もちろん大阪以外にもあるのですが、今回は大阪市に限定してご紹介します。

真田幸村というのは後世の名であり、生前には「幸村」という名が使われているものは見つかっていないそうです。
江戸期以降、講談や小説などで、真田十勇士を従えて宿敵である徳川家康に果敢に挑む英雄的武将・真田幸村(さなだ ゆきむら)と
して取り上げられたことで、広く「真田幸村」という名で一般に知られることになったようです。

ちなみに「信繁」という名は、武田信玄の同母弟「武田信繁」からとられたものだそうで、
兄を立て、能力も高く優秀な武将であったため、あやかってつけられたのだそうです。
「武田信繁」は川中島の戦いで戦死しています。

真田幸村の父親、真田昌幸もまた、上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで知られ、
後世には戦国時代きっての知将、謀将としての人物像が付加され講談や小説などでも知られるようになる人物です。
親子2代で家康を震えさせたともいえます。

【『真武内伝』をはじめ江戸期に成立した戦記物に拠れば、徳川家康は大坂冬の陣において真田が大坂城に入城した知らせを受けると「親の方か?子の方か?」と訊ねたと言われる。これは「謀将」昌幸の病死を家康を始め当時の武将達が半ば疑っていたことを示唆している。また、その時家康の手はがたがた震えていたと伝えられ、家康がそれだけ昌幸に恐怖していたとされる(昌幸ではなく、当時は無名の信繁と知って安堵したとも)。 】──Wikipediaより。

真田幸村についてはこれ以上書くと長くなってしまいますので、詳しくは関連の書籍やWebサイトをご参照下さい。
(※こちらのレポートは性質上、目的地を訪問した日時がそれぞれ異なる場合があります。)


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大阪城〜豊國神社

まず向かったのは大阪城。
かつての豊臣家の城で、大阪夏の陣で焼け落ちてしまったため、現在の天守は再建天守です。
城跡に現存する櫓や石垣などは徳川氏、徳川幕府によるものですが、
城の地下には豊臣の時代の城の名残が残るとも言われています。
現存している幕末期の櫓や門は国の重要文化財。再建天守は登録有形文化財。他、特別史跡となっています。

現在の大阪城は大阪市の主要な観光スポットの1つとなっており、
私が久しぶりに訪れたときも、外国人観光客が特に多かったです(私が行ったときは韓国人が特に多い)。

大阪城の周辺は大阪城公園という広大な公園になっていて、内部には博物館や多目的ホール(大阪城ホール)があり、
桜の名所としても人気で、多くの人が訪れる憩いの場となっています。

大阪城公園の最寄り駅は多数ありますが、今回は地下鉄「森ノ宮」から入ることにします。


こちら側から公園に入ると、まず噴水が目に付きます。


道路沿いに西に進んで行くと、大阪市音楽団があり


さらに階段を上がった先には


左手に「ピースおおさか大阪国際平和センター」があります。


そして先へ進むとベンチがあり


目の前には、大阪城の堀が広がっています。
  

堀といえば、大阪冬の陣の後に大阪城の堀が埋められていますが、その堀がどのあたりにあったか、はっきりとは分かりません。

堀に沿って天守の方向へ進みます。


徒歩だけでなく、車で中に入って行くこともできます。


天守へと続く道。


振り返ると、坂になっているのがわかります。


さらに進んでいきます。


内側の堀が見えてきました。
  

大手門の手前には、豊臣秀吉を祀る「豊國神社」があります。
豊國神社は日本各地にありますが、大阪にもやはり、大阪城のすぐ側にあるのです。


入り口には豊臣秀吉の像。


そこそこ立派です。
  

敷地内には秀石庭なるものも。
  

「豊國神社」。天守閣に入る前には是非こちらも立ち寄って見てください。


さて天守の方に戻りますが、こちらが南側の入り口「桜門」です。


なかなか立派な門で、観光客も写真を撮っています。


入るとまず目の前にあるのは、巨大な石垣。


そこを抜けると、天守閣が見えてきます。


すぐ右手には「大阪市立博物館」もあります。この建物も古く歴史があるのです。


左手には大阪城址の石碑があるのですが、この位置だと多分、誰も気が付きません。


このあたりは天守閣がよく見えるので、土産屋もあり、観光客も多いです。
しばらく見ない内に、随分綺麗になったような気がします。


大阪城の天守閣は見た目はそこそこですが、内部は実は展示室になっていて、最早ビルなんです。
  

ここから堀を見下ろすと、結構な高さです。


斜めからのアングル。


城の裏側にも回れるようです。


裏から見上げてみました。


城の正面に戻ってみると、残念石なるものがありました。
  

香川県で割られたものの、城の再建に使われなかった石ということのようです。


こちらがチケット売り場。交通チケットによっては割引してくれますよ。


今回は天守閣の中には入りませんでしたが、興味のある方は是非入ってみてください。
大阪の陣、及び真田幸村についての展示品もありますよ。


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志紀長吉神社(幸村の戦勝祈願)

次に訪れたのは志紀長吉神社。
地下鉄谷町線の「長原駅」から徒歩5分の距離。(私は自転車で行ったので実際の時間は不明)

真田幸村が大坂夏の陣の道明寺・誉田の戦いの後にここに立ち寄り、戦勝祈願したとされる神社です。
また近くには真田幸村が休憩していた場所があるといいます。

自転車で探しながらうろうろしていると、看板を発見。


すぐそばに、大きな鳥居がありました。


確かに「志紀長吉神社」とあります。


住宅地をまっすぐ進むと


神社がありました。


祭りか何かの準備中なんでしょうか。


こちらにも「茅の輪」がありました。


本殿。


境内には他に、琴平社と


稲荷社がありました。


奥にも碑が。


境内はまぁまぁ広いです。


幸村ゆかりの地ということで、解説の看板が建てられていました。
  

真田ゆかりの碑があると聞いたんですが、少し離れた場所にあるようです。


神社から、最初の場所へ引き返すことにします。


最初の大鳥居を越えて道路を渡り、すぐ右手へ


場所は大鳥居のすぐ手前ですね。周りは普通の住宅街。


真田幸村休憩所跡の碑がありました。このすぐ隣は普通の住宅です。


扉には六文銭。


隣の石版には解説が書かれていました。


普段は門が閉まっており、正月に特別公開されるそうです。


入れなくはないですが、周りが住宅街で進入できないので、これが限界。


しかし、普通の住宅街にこういう碑が残っているとは驚きですね。
こんなところまで真田幸村は足を運んでいたんですね。


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三光神社〜心眼寺〜真田山公園

次に向かったのは三光神社。
この神社は大阪市天王寺区玉造本町の宰相山公園にある神社で、天照大神・月読尊・素戔嗚尊を祀ります。

鎮座地の丘は宰相山とも真田山ともいい、かつては大坂城の出城が置かれ、
大坂の陣のときには真田幸村が大坂城から当地までの抜け穴を掘った
といわれていて、その跡が残っています。

最寄は大阪市営地下鉄の「玉造」駅の2番出口。


ここから歩いて南に向かうと、すぐに見えてくるのが


宰相山公園内にある「三光神社」


鳥居を潜って真っ直ぐ進みます。


後ろに振り返るとこうなってます。


右手に参拝所があるのですが、まっすぐ抜けて


すぐ右にあるのが、真田幸村公の像。


接近して撮影。この大阪の地に今も佇んでいます。


裏側に回ってみると、解説が書いてありました。
  

斜め後ろからのアングル。そこそこの大きさはあります。


そして、像のすぐ横には


史跡 真田の抜穴跡がありました。
  

門には六文銭(真田家の家紋)。残念ながら閉まっていて今回は入れませんでした。


少し戻って階段を登り、参拝所へ。


真田幸村とは関係なく、ここはそもそも神社ですからね。


石碑などもありました。


目立たないところには手水舎も。


敷地内は宰相山公園なので、一応公園の体を成しています。
  

公園内を散策していると、何やら墓地らしきものが。


結構な敷地面積ですが、一面墓地です。私が行ったときは草刈の最中でした。
  

石碑を発見。真田山旧陸軍墓地とありました。なるほど陸軍墓地でしたか。


次に向かったのは、宰相山公園から西に歩くとある「心眼寺」。


ここは大坂夏の陣の数年後に、真田幸村・大助父子を弔う意味で建てられたのだそうです。


左右には阿吽の像。
  

「真田幸村 出丸城跡」と書かれた石碑もありました。


そして扉には六文銭。真田ですね。


内部はお墓が建っていて、わりと普通でした。
  

お地蔵さんも建っていました。
  

「心眼寺」のすぐ近くには「善福寺」もあります。「どんどろ大師」の名で知られる寺。
  

この寺にある鏡如庵(どんどろ大師)は、宝暦2年(1752年)3月に高野山岩本院法資法道が
大坂夏の陣(元和元年・1615年)の戦死者の霊を弔うために創建されたといいます。
鏡如庵のあった付近は、大坂冬の陣(慶長19年・1614年)では、
真田幸村が真田丸を築き、大坂冬・夏の陣ともに激戦地であったようですね。

また鏡如庵は、歌舞伎「傾城阿波の鳴門(けいせいあわのなると)」、
歌舞伎「国訛嫩笈摺(くになまりふたばのおいずる)」の「どんどろ大師 門前の場」の舞台として設定されています。
巡礼姿の娘おつると母おゆみの愁嘆を描いた場面が有名で、寺の前にもその像があります。


ついでなので、真田山公園にも立ち寄ってみました。


この公園はかなり広く、施設も充実している広い公園です。
プールやテニスコートまであります。


この「真田山」というのは地名で、由来はやはり真田にゆかりがあるためでしょう。
このあたりにはかつて真田丸があったと言われていますが、具体的な場所は分からないようです。

真田丸は真田幸村がかつて構築した出城で、大阪冬の陣において幸村が徳川方の兵を散々に打ち破ったもの。
冬の陣の終了後、和議の条件により真田丸は破壊されてしまいますが、それほど徳川にとって脅威だったということですね。


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大聖観音寺(真田幸村に追われ徳川家康が逃げ込んだ寺)

大聖観音寺は大阪市住吉区にある仏教寺院で観音宗総本山。
安彦観音寺、我孫子観音、あびこ観音ともよばれていて、山門付近の石柱は吾彦観音寺の表記となっています。
創建は546年で、日本最古の観世音菩薩の寺院とされ、厄除の寺として知られています。

あびこの名は、この地の豪族、依網吾彦(よさみのあびこ)に由来するといわれています。
大阪では地名としての「あびこ」が知られています。地下鉄にも「あびこ駅」がありますしね。

実はこの寺、1615年の大阪夏の陣の折、真田幸村に追われた徳川家康がこの寺に逃げ込み、
本堂の須弥壇に隠れて難を逃れた
という話があるんです。
その後、家康の寄進により再建され、江戸時代には徳川家の帰依もあり最盛期を迎え、境内に36の支院があったといわれます。

地下鉄谷町線の「あびこ駅」から徒歩5分の距離。(私は自転車で行ったので実際の時間は不明)

やはり自転車でうろうろしながら探していると、それっぽいのを発見。


こちらは横の門なんですが、正面より立派です。


正面の門へまわってきました。


入ってすぐ右に不動明王。


本殿までは石畳が続いていました。


そこそこ立派ですね。


境内も狭くはないです。


建物の裏にも、社がいくつかあるようでした。
  

「びんずるさん」という像。撫でるとご利益があるそうで、撫でられまくってツヤツヤでした。
  

残念ながら幸村や家康についての事は触れていませんでしたが、ここもこの界隈では名の知られた寺ではあるのです。


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安居神社(真田幸村終焉の地)

最後に訪れたのは安居神社。
ここは真田幸村終焉の地。つまり真田幸村が討ち取られた最期の地です。

場所は天王寺区で、最寄り駅は地下鉄の四天王寺前夕陽ヶ丘。
この周辺エリアは大阪市の中で、特に寺社仏閣が集まっているエリアでもあります。

駅から出て寄り道しながら歩くこと10分。
天王寺七坂の1つ、天神坂までやってきました。
  

この坂の前が、安居神社へと続く道。


坂を登っていきますと


社が見えてきました。


振り返ると、坂になっているのがわかります。


こちらが神社の本殿。


狛犬の下には猫がくつろいでいました。
  

そして少し奥に歩いていきますと


ありました。真田幸村の像です。


真田幸村公之像。享年49ですから、それくらいの年恰好でしょうか。


接近して像を撮影。手甲のところに金色の六文銭がありますね。
  

像の背中。背筋伸びてますね。


そして像の隣にあったこれが、幸村戦死跡之碑。


真田幸村陣没旧跡の立て札。
  

幸村公銅像寄進者御芳名も建っていました。


真田幸村は今もこの地に眠っているのですね。


アングルを変えると印象も違ってくるようです。


安居神社は高い位置にあるので、階段を使って上り下りします。


安居神社へと続く道には、立て札と鳥居がありました。


やはり真田幸村終焉の地ということで、人気がありそうですね。


今回、大阪市内の真田幸村ゆかりの地を数日に分けて巡りましたが、1日で回るにはちょっと大変かもしれません。
しかしながら、人気武将の真田幸村のゆかりの地を巡るというテーマで歩くと、また少し違った大阪の旅ができたような気がします。
このレポートが、これから大阪を訪れる方の助けになれれば、嬉しく思います。


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