■ 赤壁の戦い〜三国鼎立

●赤壁の戦い

曹操軍の南征
南征に赴いた曹操は、荊州を手に入れ、劉備らを破った。
そして船団で長江を下り、江東をめざそうと目論んでいた。

勢いに乗って天下統一を目指す曹操。その野心を打ち砕かんとする劉備はまだ力を蓄えきれていない。
諸葛亮は、ここは呉と協力し、これを防ぐのが上策であると考えていた。

曹操から逃れた劉備は、孫権陣営から様子見に派遣されてきた魯粛と面会し、 江東の孫権と同盟を結ぶべく、諸葛亮を呉へ使者に立てた。

・降伏か抗戦か
孫権の陣営では、魏に対して降伏か抗戦かで意見が分かれていた。
しかし諸葛亮と、主戦論に偏っていた魯粛が孫権の説得を始める。
周瑜も後からやってきて主戦論を主張したため、孫権は降伏派を一蹴し戦うことを決めた。

諸葛亮周瑜とも議論をしており、諸葛亮は「曹操は、江東の二喬と呼ばれる2人の美人姉妹を共にはべらせたいと考えている」という話を周瑜に伝えた。
「江東の二喬」姉妹の姉、大喬は孫策の妻であり、小喬は周瑜の妻である。
これに激怒した周瑜曹操との会戦を決意したと言われている。

・抗戦の決意
数の上では魏軍が何倍も勝っているものの、魏は北国の者が多く水に不慣れで、 水軍は降伏して日が浅い荊州軍くらいのもので、兵の多くは水上戦を知らぬ者ばかりであった。
呉軍は数は少ないながらも精鋭揃いで、長らく長江とともに暮らしてきたものが多く、 水上戦は得意とするところであった。孫権の父である孫堅も水上戦で腕を鳴らしていたほどである。
208年、孫権周瑜を大都督に任じ、出撃の準備にかかった。

曹操周瑜を警戒しており、周瑜曹操水軍の提督、蔡瑁を警戒していた。
あるとき曹操は、周瑜の顔馴染みである蒋幹を呉に向かわせ、魏に下るよう説かせようとした。
しかしそれを見抜いた周瑜は、逆に蒋幹を利用する。
偽手紙を蒋幹に持ち帰らせ、蔡瑁を反逆者に仕立て上げあげた。
この離間の策は見事に成功し、曹操によって蔡瑁と張允は処断された。
水軍に長じる蔡瑁を除いたことで、曹操軍の水軍は弱体化した。

・同盟軍の秘策
曹操軍は大船団を擁しており、同盟軍に数倍する兵力を備えている。
この戦力を覆すには地の利を生かし、策を用いる事である。
諸葛亮周瑜が互いに示した計は「火」だった。

蔡瑁が殺されたことで、蔡瑁の一族である蔡和・蔡中兄弟が呉に下ってきた。
しかし諸葛亮周瑜も、これが偽りの投降であることを見抜いていた。
これを逆に利用するため、周瑜は黄蓋とある策を練った。

蔡和・蔡中の前で、周瑜が黄蓋と些細なことで争い、黄蓋に罰棒をくらわせて見せ、 呉がまとまっていないように見せかけたのである。
そして黄蓋は魏に投降する旨の書状をカン沢に託し曹操の元へ向かわせた。
蔡和・蔡中の密告と、カン沢の巧みな弁舌で曹操は投降を信じ込んだ。
(正史ではカン沢は弁舌巧みではないようで、蜀の使者である張奉が 彼の姓名をからかった時、やり返せなかったという記述が、正史の「薛綜伝」にある。)

さらに周瑜に協力したホウ統が、偶然を装って蒋幹をうまく欺き、魏陣営に赴いた。
船に慣れぬ魏兵のため、船を繋げて揺れを少なくし安定させよ、と曹操に献策した。
この「連環の計」により、船が集中する分、より火計の効果を上げようとしたのである。

曹操はこれを信じ、すぐに鎖を作り船を繋ぎはじめた。
しかし曹操の元にいた徐庶は、ホウ統が仕掛けた連環の計の真意に気づきながらもこれを見逃し、 ホウ統の助言により涼州の馬騰に対する備えという名目で陣を離れ、この後の敗戦を免れた。

・東南の風
だが周瑜にはもう一つ心配なことがあった。
季節は冬、風は北西、曹操軍は呉軍の風上である。
火計を仕掛けたら味方に燃え移りかねない。
気を揉んだ周瑜は病に伏すが、諸葛亮が訪れて「東南の風」を呼ぶと約束する。
諸葛亮は、山に七星壇を築かせ、祈祷を行った。
そして約束の日、にわかに東南の風が吹き始める。
風は次第に強く吹きつのる。 時は至れり、とばかりに呉軍が動き出した。

・壮大な火計
まず投稿を装った黄蓋が、数十艘の船を引き連れて魏の船団へと近づく。
追い風に乗ってみるみる迫ると、黄蓋の合図で一斉に火の手を挙げた。 それを東南の風が煽り立てる。

また甘寧も、偽りの投降である蔡中を利用し、曹操陣営の裏の烏林の地まで深く潜り込んで火を放ち、 さらに逃げる曹操に追いすがり損害を与えた。
当然、蔡中は役目を終えた後甘寧に首を切られた。

一方の蔡和も戦いがはじまると、周瑜に引き出されて策略が露見していたのを知り、 呉軍士気高揚のために斬首され、神壇に捧げられた。

曹操の陣営が気付いたときにはすでに遅く、鎖で繋がれた船は次々と延焼していった。
火の粉が長江を覆う中、意気上がる呉軍が殺到し、混乱する魏兵を続々と血祭りに上げていく。

曹操軍の大敗北
呉にいた諸葛亮は東南の風にのり、船で劉備の元へと戻った。
すぐに劉備軍も曹操に追い討ちをかけたが、諸葛亮は「今曹操は天命がつきておらず、 殺す事は不可能であろう」と判断し、曹操に恩がある関羽をわざと伏兵に置き、 あえて関羽曹操に対し恩を返す機会として与え、関羽曹操を逃がすのを黙認した。

長江に布陣していた大船団をことごとく焼き払われ、 曹操軍は陸路をとり退却したが、 呉軍と劉備軍により散々に打ちのめされた。
曹操があと一歩で逃れ得るところで 関羽軍と遭遇したが、 関羽はかつて曹操に受けた恩を感じ、 刃を向けず引き返した。
満身創痍であった曹操は九死に一生を得た。

曹操は敗れ、北へと退いた。曹操軍の50万といわれた軍勢も、 生き残ったのは僅か数十人という有様だった。
曹操はこの敗戦のとき「奉孝ありせば・・・」とつぶやいたと言われ、 もし郭嘉が生きていれば赤壁の敗北はなかったと言われている。

曹操は軍師であった郭嘉を大変信頼しており、 「わしの大業を成就させてくれるのは、この男をおいて他にいない」と高く評価していたという。
しかし郭嘉が38歳の時、柳城から帰還すると、風土病を患いその後病死してしまっていた。
曹操は郭嘉の死を大変悲しみ、荀攸らに向かって「諸君はみな、わしと同年代だ。 郭嘉ひとりがとび抜けて若かった。天下泰平のあかつきには、 後事を彼に託すつもりだったのに・・・」と嘆いたという。

この戦いの敗北により、魏の天下統一は遠のいた。
こうして曹操は荊州の大半を手放さざるを得ず、以後劉備孫権の係争地となる。

●三勢力の攻防

・呉軍の進行
赤壁の勝利に乗じ、呉軍は水陸両面から江陵に攻め込んだ。
曹操軍は曹仁を出撃させ、両軍は夏水を挟んで対峙した。
劉備関羽を北に派遣し、曹仁の後方を絶つ形勢を示したが、曹仁は軍を分けてこれに対応した。

呉の周瑜率いる六千騎の軍勢に対し、曹操軍の牛金はわずか300名でこれを迎撃した。
奮戦したが、所詮は多勢に無勢で、後一歩で危うく討たれるところであったが、 曹仁は窮地に陥った牛金を果敢に救助して、その名を轟かせた。

甘寧は夷陵を奪取し、襄陽と曹仁の連携を絶つ策を献策し、 周瑜はこれを入れて甘寧は数百人の部隊で夷陵を奪取した。
しかし曹仁は甘寧に対し、即座に五千人規模の部隊を派遣し夷陵を逆に包囲した。
このとき甘寧は降兵とあわせて僅かに千人あまりの兵を率いているだけであったが、 包囲されても泰然として指揮をとったという。

周瑜は呂蒙の献策をいれて、凌統の部隊に曹仁との対峙をまかせ(留守部隊に凌統を残したのは甘寧との関係に配慮したものと思われる)、 本隊をもって夷陵を包囲する魏軍を攻撃し、夷陵を完全確保することに成功した。

その後、周瑜らは夏水を渡渉し曹仁と交戦し曹仁を江陵に押し込むことに成功したが、 その際周瑜は矢を受け負傷し指揮不能に陥る。
曹仁は周瑜負傷を知り再び江陵から出撃し、呉軍を攻撃したが周瑜は意識を朦朧としながら 立ち上がり敵味方に周瑜健在を示した。
これにより曹仁はこれ以上江陵に篭城することは不可能と判断し撤退した。

劉備軍の侵攻
この間、劉備軍は隙をついて荊州、南郡、襄陽を手に入れ、さらに江南四郡の制圧を目指す。
零陵郡の太守は劉度。子の劉賢とともに抵抗するも、配下のケイ道栄が戦死したため、劉備軍に降伏した。
桂陽郡の太守は趙範。趙雲と遠縁で、同じ常山郡真定県の出身という。
部下の陳応とともに劉備軍にいったんは対抗したものの大敗し降伏。
その後、同姓の誼で趙雲と義兄弟の契りを結び、親交を深めるため自分の嫂を趙雲に譲ろうとしたが、 逆にそれが仇となり、趙雲に袋叩きにされる。
それに怒った趙範が趙雲の寝首を取ろうとしたが、裏をかいた趙雲に敗れ降伏した。陳応は首を斬られた。
この際妻を娶ることを拒否した趙雲は「女性など世の中にいくらでもいる」と言ったといい、 色事に現を抜かす人物ではないことを示したとされ、 武士としての面目を重んじた。

武陵郡の太守は金旋。攻めるは張飛。金旋は懸命に戦うが敗れて武陵に逃げ戻る。
しかし、降伏をすすめていた家臣の鞏志が、無駄に兵士を死なせたと言って金旋を射殺し投降。
鞏志は劉備に武陵太守に任ぜられた。

長沙の太守は韓玄。民衆を苛める暴君であった。これを攻めんと関羽が出撃した。
韓玄はこれに対し、配下の老将・黄忠に出撃を命じるが、先鋒を頼んだ楊齢がまず出撃する。
楊齢は関羽に挑むが一合で討ち取られてしまった。後から出撃した黄忠は、関羽と一騎打ちを演じた。
勝負はつかなかったが、韓玄は黄忠関羽と内通しているのではないかと猜疑し、 黄忠を捕らえて処刑しようとする。しかし、逆に民衆を煽動して反乱を起こした魏延により、 韓玄は殺害され、城を開け降伏した。
かくして劉備は江南四郡を平定し、大きく力をつけた。

長沙を落とした後、黄忠劉備に仕えた、このとき齢60を超えていたという。
魏延もこのときに配下となったが、諸葛亮は「反骨の相(頭蓋骨が後部にでていること。
裏切りの象徴とされる)」が魏延にあるとして、魏延を斬るように進言した。
その際は劉備が取り成したために斬られずに済んだが、 それからも諸葛亮はしばしば彼を殺そうと進言したという。

魏延は勇猛であり、この後、蜀でもたびたび戦功を立て重用されたが、 他の諸将は彼を敬遠していた中、楊儀だけは公然と手向かったため、 魏延と楊儀は非常に仲が悪く、諸葛亮も交えてこれが後々の因縁の元となったという。

・呉の攻防
その頃、呉では合肥方面へ侵攻し、曹操軍と争っていた。
周瑜が病に伏していたため、孫権が指揮し戦い続けたものの、 宋謙が李典に射殺されるなど、やや旗色が悪かった。
ついには太史慈までもが戦死してしまった。

一方で荊州の領土を巡り、蜀と呉が計略を戦わせていた。
荊州の譲渡を渋る蜀に対し、周瑜は謀略結婚を発案する。
孫策孫権の妹である孫尚香劉備に嫁がせ、 呼び寄せた劉備を呉国内に事実上拘留して、 骨抜きにさせるという計略であった。

孫尚香は一般的には「孫夫人」と呼ばれ、気が強く、身の回りには常に武装した侍女達が付き、 自身も薙刀を操り常に腰に弓を装備していたことから「弓腰姫」とも呼ばれていたという。
そのため劉備は奥に入るとき、常にびくびくしていたらしい。
夫となる劉備とは年が30歳近くも違っていたが、両人の仲は良好なものであった。

孫権は呉にいる間に、劉備を殺そうともくろむ。
しかし護衛の趙雲と、孫権の母親呉国太がいたためになかなか実行できなかった。
呉国太が劉備の人となりを確かめるべく宴を開いたが、 その宴が終わると劉備は甘露寺にあった大きな石を見つけた。
その石を見て劉備は天に向かって、「自分が無事荊州に戻って天下を取れるなら石が砕け、 この地で命運尽きるなら剣が砕けよ」と祈り、斬り込むと石が真っ二つに割れた。
それを見ていた孫権が、「自分も曹操を破り荊州を取り戻せるれるならこの石割れよ」 と願をかけ劉備の切れ目に垂直に斬り込むとこちらも石が割れた。
二人はお互い見事な太刀筋だと褒めあい、それから一緒に馬乗りに出たという。
(この岩は甘露寺の十字紋石と呼ばれ、実際にその時二人が斬ったと されている石も残存しており、現在も観光スポットとなっている。 実際は十字ではなく二つに割れてるらしいが…)

呉にしばらく拘束された劉備だったが、同行していた趙雲諸葛亮より授かった策を用い、 劉備孫尚香と共に荊州へ脱出する事が出来た。

周瑜は病の床に伏していたが、自らの策を全て見透かしてくる諸葛亮を危険視し、 暗殺を企むも果たせず、終始ライバル視しながら対抗するも敵わなかった。
臨終の際にも諸葛亮からの挑発的な書状を読み、「天はこの世に周瑜を生みながら、 なぜ諸葛亮をも生んだのだ!」と血を吐いて憤死するという哀れな最期であったという。
享年36。その周瑜の才能は味方からは慕われ、曹操劉備は大いに恐れたといわれ、 周瑜が長命であれば三国時代の歴史が大きく変わったであろうといわれる。

・鳳雛、ホウ統
諸葛亮周瑜の葬儀に参列したが、その際にホウ統と出会い、劉備に仕えるように誘いかけた。
その後、彼の才を惜しんだ魯粛によって孫権に引見されるが、醜い風貌と歯に衣着せぬ言動から疎まれてしまう。

次にホウ統は劉備に面会するが、劉備はその風貌を見て諸葛亮が推挙するホウ統かどうかが判らず、 閑職の地方県令をあてがった。するとホウ統は一ヶ月の間酒ばかり飲んで職務を怠け、 村人から訴えられるが、劉備から派遣された張飛が詰問したところ、 溜まっていた一ヶ月分の仕事を半日で全て片付けてしまう。
これによってホウ統はその才能を劉備に認められ、さらに劉備は自身の行為を戒めることになった。
劉備はホウ統を召し抱え、諸葛亮と同じ役職である軍師中郎将に任命した。

・潼関の戦い
赤壁の敗戦後、曹操は南の孫権の侵攻に備えていた。
その一方で、後顧の憂いを絶とうと西に手を伸ばし、 かつて曹操暗殺計画にも参加していた西涼の馬騰を除こうと考えた。

許昌に呼び出された馬騰は黄奎と共に曹操討伐を計る。
しかし密告により計画が漏れ、次男の馬休・三男の馬鉄と共に一族皆殺しとなった。
唯一、馬岱のみが命からがら脱出に成功し、退却した。
涼州に残っていた馬超は馬岱から馬騰の死を聞き、曹操に対して復讐の為に兵を起こした。

馬超は韓遂、楊秋、成宜、侯選、程銀、李堪、張横、梁興、馬玩らあわせて十部隊らとともに進軍した。
手始めに長安の守備に就いていた鍾ヨウを破り、鍾ヨウの弟鍾進(架空の人物)はホウ悳に討たれた。

曹操は曹洪に先鋒として潼関守備の任を与え、打って出ることを禁じた。
しかし曹洪は馬超軍の兵士に罵倒されたことを怒り、 曹操の命令を破り打って出てしまい潼関を馬超軍に奪われる。
そのことで曹洪は曹操の怒りを買うが、しばらくして馬超に追い詰められた 曹操を救ったために潼関敗北の罪は相殺された。

曹操夏侯淵・曹仁らを率いて潼関にて馬超らと対峙した。
緒戦、曹操が黄河の渡河を試みると、馬超は精鋭を率いて船団に猛攻をかけ、 曹操の軍勢は混乱し、曹操自身も命を落としかけるほどであった。

曹操は黄河を渡る前に兵を先に渡し、許チョと親衛隊百人余りとともに南岸に留まって 背後を遮断したが、馬超が兵一万人余りを率いて曹操軍に雨のように矢を降り注がせた。
許チョ曹操を支えて船に乗せたが、兵も競って乗ろうとしたので船は重さのため沈没 しそうになった。そこで許チョは船によじのぼろうとする者を斬り、 左手で馬の鞍を掲げて曹操を矢から庇った。
さらに船頭が流れ矢に当たって死ぬと許チョは右手で船を漕ぎ、ようやく渡ることができた。
許チョがいなければ命がなかったと後に曹操は述懐している。

その後も激しい攻防が続いたが、途中、馬超・韓遂と曹操の間に会談が設けられた。
曹操はそのときに許チョだけを連れて行った。
馬超は自分の武術の腕を頼りに曹操を殺そうとしていたが、以前から許チョの勇敢さを聞いており 曹操に従者がその許チョではないかと聞くと曹操は無言で後ろを指した。
すると許チョ馬超をにらみつけた。そのため馬超は動けず、結局引き返した。

また曹操は賈クの進言で、曹操が韓遂と昔馴染みであることを利用し、 親しげに語らって見せ、馬超に韓遂を疑わせる離間の計を用いた。
この策により、韓遂は怒った馬超によって左腕を落とされ、その後曹操に降伏した。
この隙をついて曹操軍が出撃したが、 馬超は敗走し、馬岱、ホウ徳らと共に、やがて漢中の張魯の元に身を寄せた。

●三国鼎立

・益州からの使者
曹操の侵攻を恐れた漢中の張魯は、先んじて益州を取ろうと目論んだ。
これを伝え聞いた益州刺史の劉璋は動揺する。
そこへ、配下の張松が曹操への使者に立つことを申し出た。
張松は背が低く、出っ歯で鼻も低いという風采の悪い人物だったとされる。

許都を訪れた張松だが、曹操は見下した態度で臨んだ。
楊修は張松を接待してる内にその才を認め、曹操に面会を申し入れるが、 曹操に冷たくあしらわれたことから、謁見時には曹操が書いた『孟徳新書』という 兵法書を全て丸暗記してみせ、曹操を愚弄したために百叩きの刑に遭ってしまう。
張松はこれに怒り、場合によっては益州を曹操にとも考えていたが思い直した。

その後、張松は荊州の劉備のもとを訪れた。
荊州に入る前から趙雲が直々に出迎え、荊州に入ると次に関羽が直々に持て成し、 そして劉備諸葛亮が直々に持て成し、それに深く感動した張松は、
仁義を重んじる劉備であれば益州を任せるのに申し分ない、と益州を託したい旨を劉備に告げる。
曹操に渡す予定であった『西蜀地形図』を劉備に献上し、友人の法正や孟達を紹介した。

劉備、益州へ
張松は益州へと戻り、劉備に加勢を頼むよう劉璋に進言した。
劉璋は、同族でもある劉備ならば、と同意する。

だがこれに反対する家臣もおり、黄権は「左将軍(劉備)を武将として扱えば (劉備が)不満に思うでしょうし、賓客として扱えば一国に二人の 君主がいることになってしまいます。」と反対した。
しかしこれにより、劉璋の勘気に触れ、州治の成都から広漢県の長に左遷された。

王累は城門に自分の身体を逆さ吊りにして諫言したが、 劉璋が聞き入れなかったため、絶望して自ら縄を切って「惜しいかな、蜀…」と叫んで、 地面に落下死し、猛反対の意志を徹底的に貫いたという。

劉璋と面会した劉備は張魯討伐を引き受け、益州へ赴いた。
劉璋は惰弱な君主だったため、張松たち家臣の間で名君を迎えようという動きがあった。
劉備陣内でも、天下三分を実現するためには益州を取るべし、との強い意見が挙がる。

蜀に入った当初、劉璋は劉備たちの本心を知らずに歓迎の宴を開いた。
ホウ統が魏延に命じ、劉璋を殺そうと剣舞を舞わせたが、 トウ賢、張任らが劉璋を守ろうと魏延に合わせ剣舞を行ったため、劉璋は斬られずに済んだ。

劉璋の無防備さに、ホウ統はこの機会に劉璋を捕らえ、戦う事無く蜀を取るよう劉備に進言したが、 同族である劉璋を討っては義理が立たない、と劉備はこれを拒んでいた。

そんな折、漢中の張魯軍が劉璋の元へ攻めあがってきた、 劉備軍は張魯に代わって出陣し、前線の葭萌へ駐屯する。
この地で張魯を討伐するよりも住民たちの人心を収攬することに勤めた。

劉備の決断
その頃、呉では張昭と魯粛の策で、劉備の妻、孫尚香の元に、孫尚香の旧臣である周善という者を派遣させた。
孫尚香は母が危篤との知らせを聞き、阿斗を引き連れて呉に帰国しようとした。
しかし、それを発見した趙雲張飛が周善を斬り、阿斗を奪い返した。
孫尚香はそのまま呉に帰国した。

212年、曹操孫権を攻め、孫権から劉備に対して救援要請が来た。
それにあてる兵の援助要請を劉璋に出したが、これを劉璋が渋ったことから両者は決裂する。
劉備はホウ統の進言を聞き入れ、呉への援軍を口実に兵力移動の隠れ蓑にすることとした。
この時、ホウ統は劉備に対して、昼夜兼行で成都を強襲する上計、 関所を守る劉璋の将を欺いて兵を奪い成都を目指す中計、 いったん、白帝まで退く下計の三計を提示し、その結果、劉備は中計を採用した。

劉備軍は劉璋から付けられた監視役の高沛と楊懐の二将を謀殺し、 蜀の首都成都へと向けて侵攻を始めた。
張松は劉備を蜀に戻そうと画策するが、そのとき訪れた張松の兄で広漢太守であった張粛に、 酒の席で劉備入蜀計画が漏れてしまい劉璋に密告される。
張松は「兄には大望が見えないのか」と嘆き、怒った劉璋により張松とその妻子は処刑されてしまった。

成都攻めには軍師にホウ統、武将に魏延、黄忠らがいた。まず、手始めにフ水関を落とした。
冷苞、劉カイ、張任、ケ賢の4人は紫虚上人に益をたててもらい、劉備軍を迎え撃つ。
黄忠、魏延は功を争って出陣したが、魏延は抜け駆けし急いて攻めようとする。
しかし逆にトウ賢に追い詰められたが、黄忠の弓によってトウ賢は討たれた。
魏延は敵から逃れたものの、冷苞を捕らえることに成功した。

冷苞は他の部将を説得する約束で解放されたが、次は水攻めで劉備軍を攻撃しようと図る。
しかし、またしても失敗し、魏延に再度捕えられ、直ちに処刑された。

次は成都防衛の拠点・ラク城に軍を進めるが、出陣前にホウ統の馬の前足が折れてしまう。
劉備の代わりに危険な間道を進むホウ統に、劉備は自分の愛馬(的盧と思われる)を差し出した。
ホウ統が落鳳坡という所に差し掛かったとき、潜んでいた張任は立派な馬に乗るホウ統を 劉備を間違え、伏兵に命じて矢を放たせ、ホウ統は落命してしまう。享年36。
劉備はホウ統の死を大いに悲しみ、関内侯を追封し、靖侯と諡号を贈った。

・蜀と将を得る
この窮地に、荊州から諸葛亮張飛が駆けつけた。
張飛は巴城に迫った。太守は老将・厳顔。張飛は厳顔の生け捕りに成功する。
しかし、捕虜になったのだから自分にひざまつけと言う張飛に対して、 「あなた方は無礼にも、我が州(益州)に武力をもって侵略した。
我が州には首をはねられる忠臣は居ても、降伏する将軍はいない。早く首を斬れ」と張飛を面罵した。
腹を立てた張飛は、部下に彼の首を切らせようとしたが、厳顔がそこでさらに 「首をはねるなら、さっさとすれば良い。どうして腹を立てることがあるのだ」といったので、 張飛は厳顔を見事だと思い、厳顔の縄を自ら解き、以後は賓客として厚くもてなしたといわれている。
このため厳顔も降伏し、以後は劉備の家臣となった。

劉備軍はさらに軍を進め、呉懿、呉蘭を破り、説き伏せて配下とした。
その後、諸葛亮は計略により、金雁橋に出撃した張任も捕らえた。
劉備は智勇兼備で忠義者である張任を高く評価し、何度も臣従を勧めるが、張任は決して降る事がなかった。
そのため最後には張任は首を刎ねられた。
劉備は敵ながら最後まで忠烈に戦い、忠義を曲げなかった張任に感服し、遺体を金雁橋のたもとに埋葬して 墓の傍に石碑を立て、これを讃えたという。「張任墓」は旧跡として四川省広漢市に今も現存する。

劉璋の長子・劉循は、ラク城に立て籠もって一年近くも守り続け、頑強な抵抗をみせていたが、 張任の死により、ラク城は陥落。劉循は逃げ出した。

綿竹関に進軍する劉備軍は、李厳と対峙した。
李厳は黄忠との一騎打ちにも引き分けるが、諸葛亮の策により捕らえられ、劉備が説得し家臣となった。
綿竹関を守る費観は友人である李厳が説得したことで、劉備に降伏した。

一方、劉璋は自身が敵対する張魯に援軍を頼んだ。
これを受けて張魯に身を寄せていた馬超が出陣し、馬岱とともに葭萌関に迫った。
この際、張魯は馬超の監視役として楊柏も同行させた。

劉備張飛を連れこれに備え、張飛馬超は一騎打ちをするも決着はつかなかった。
この勇猛な馬超を味方に引き入れんと、孔明は策を練る。
楊柏の兄である楊松に賄賂を贈り、張魯に讒言するように働きかけた。

快諾した楊松は「馬超は蜀の地を我が物にするつもりだ」と張魯に吹聴し、 馬超を漢中に退けない状態に追い込んだ。
国を持たない馬超は行くあてを失い、李恢の説得により馬岱ともども劉備に降った。 (横山三国志のネタのシーン)
この折、監視役であった楊柏を斬り、劉備への手土産とした。

李恢は元は劉璋配下だが、劉備に降ろうとしていた。
劉璋の劉備入蜀に強く反対した人物であったため、最初は劉備からこの寝返りを猜疑されたが、 李恢は馬超の説得に成功したため、劉備の配下となることを許された。

劉備馬超の来降を聞くと「私は益州を手に入れたぞ」と言って喜んだという。
馬超劉備に帰順したという噂に恐れをなした劉璋は戦意を喪失し、 214年(建安19年)の夏5月、劉備の使者、簡雍の降伏勧告に対しこれを受け入れた。
ついに劉備は益州を得て、ここに天下三分は成った。
曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀という三国鼎立の時代が幕を開けたのである。

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