■ 官渡の戦い〜長坂の戦い

●官渡の戦い

公孫サンを倒して河北を手にした袁紹は、名門の名とともに最大の勢力を誇っていた。 対するは曹操である。
大勢力となった両雄が、いずれ激突することは必至だった。 袁紹は、大勢力を頼みに南征を決意する。

曹操関羽を得る
しかし曹操は慌てず、まず劉備を攻めた。
劉備曹操の襲撃を恐れ、孫乾を派遣して袁紹と同盟した。
圧倒的な兵力差により劉備は敗走、袁紹の元へと逃れる。
別の城で劉備の夫人を護っていた関羽曹操軍に敗れるが、 曹操関羽の武勇に惚れ込んでおり、自分の配下にと常々求めていた。
そして、夫人の安全と劉備の消息が分かれば直ちに立ち去る事を条件に、関羽曹操に降伏する。
曹操関羽を献帝に会わせたとき、彼の特徴である非常に長く見事な髭を 帝に「美髯公」と褒められたという。

曹操関羽が自分の元を離れないよう、贈り物をして恩をかけていたが、 関羽はこれらを蔵に収めて封印してしまった。
そしてかつて呂布が乗っていた名馬「赤兎馬」を関羽に与えたところ、 じゃじゃ馬であったが関羽はすぐに乗りこなし、この馬を得たことを喜んだという。
曹操がその理由を聞くと、関羽は「この馬ならどんなに遠くとも兄者の居所が分かれば すぐに飛んでいくことができるでしょう」と答えたため、 曹操は改めてその忠義ぶりを思い知った一方、後悔したという。

・白馬、延津の戦い
200年、ついに袁紹と曹操との間で戦端が開かれた。
曹操は敵の大群を陽動し、白馬の急襲に成功する。
そして単騎突入した関羽が勇将・顔良を斬って曹操に義理を果たす。

続く延津では、輸送部隊を囮に袁紹軍を誘い出し、物資に群がって隊列の乱れたところを打ち破る。
またしても関羽は、猛将・文醜を討ち取る活躍を見せ、曹操軍は勝利した。
文醜と共に出陣していた劉備は、ここで関羽の姿を確認する。

関羽、千里を駆ける
この戦いののち、関羽劉備の消息を知り、曹操の陣営を去る。
曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対して、 彼を追ってはならないと言い聞かせた。このとき、張遼関羽を説得している。
しかし劉備の元へ行くには5つの関所を越えなければならなかった。
関所に立ちふさがる6人の将を破った関羽に、夏侯惇が迫る。
だが、曹操関羽の義を認めたため、数合打ち合うも事なきを得た。

道中、関羽張飛と再開するが、張飛は山賊にまで成り下がり、 曹操の下にいた関羽を裏切り者呼ばわりして襲いかかるなど、 血の気が多く、短慮な所を見せた。しかしすぐに和平し、事なきを得た。

そして関定の屋敷で劉備も合流し、ようやく三兄弟は再会する。
関羽曹操の下から去り、三兄弟の再会までのこの話を、 コーエーは「関羽千里行」と呼んでいる。

・新たな同志
この道中、元黄巾賊の周倉が崇拝する関羽の元へ馳せ参じた。
周倉は正史に登場しない人物だが、後に関羽の側近となる武将である。
三兄弟が再開した屋敷の主、関定の次男関平が、 劉備のとりなしで、当時子がいない関羽の養子となった。
関平もまた、常に関羽に付き従い、生死を共にすることになる。
(正史では関平は関羽の子とされ、養子という記述はない。)

また趙雲劉備と再開を果たし、その配下となった。
劉備は袁紹から離れ、新たに忠臣を経て、ようやく態勢を立ち直すことができたのである。

・官渡の戦い
袁紹は二度の敗北にも挫けず、大群で官渡に攻め寄せた。
この威勢に圧され、曹操は官渡城に籠った。
袁紹軍は、城壁の周りに土山を築き、櫓を建てて城内に矢を射かけた。

これに対し曹操は、投石車を造って櫓を破壊させた。
袁紹軍は投石車を恐れ、坑道を掘り進む作戦に転じた。 だが、これも急造の塹壕によって阻まれてしまう。

戦いが長期に及ぶと兵糧も乏しくなり、両軍に寝返る者が増えていた。
袁紹軍では内部の不和もあって、幕僚の許攸が陣を去る。
その許攸が貴重な情報を携えて曹操を訪れた。

袁紹軍の兵糧は烏巣に終結しているという情報を聞き、直ちに曹操は烏巣に夜襲をかけた。
袁紹軍を装って警戒網を突破すると、手薄であった守備将軍の淳于瓊を破り、 烏巣の兵糧を全て焼き払った。

思わぬ奇襲に袁紹軍は浮き足だち、総崩れとなって退却した。
この時、袁紹を見限って張コウと高覧が曹操配下となった。
(張コウは後に夏侯淵とともに魏の名将として活躍する)

曹操、中原の覇者に
敗れた袁紹は、黄河を渡り北へ逃れ、わずかに曹操に抵抗するものの数年後に病死する。
官渡の戦いの後も、勢力では袁紹のほうが勝っていたのだが、袁紹の死に加え、 袁紹の息子達による後継者争いが勃発し、この隙を突きうまく駆逐したことで、 曹操は中原の覇者の座を我が物としたのである。

また曹操が冀州を攻め落とした時、曹操の次男曹丕は真っ先に袁紹の屋敷に乗り込んだ。
その際、当時袁煕の妻であった甄姫を見初め、妻にしたという。

●孫策から孫権へ

・黄祖攻め
呉では、孫策が父の敵である黄祖を攻めていた。
9年もの間戦い続けたといわれ、その中で凌操が甘寧に討ち取られ戦死してしまう。
甘寧は海賊あがりで黄祖に重用されなかったため、都督である蘇飛の助けにより呉に降った。
凌操の息子である凌統は甘寧を父の仇と怨んでいたが、 後、216年の濡須口の戦いで甘寧が凌統の窮地を救ったことで和平した。

孫策襲撃、于吉仙人
元呉郡太守であった許貢が呉を裏切ろうとしたため、孫策は許貢を殺害した。
200年、孫策曹操の主力が袁紹に向かっている隙を狙い、許都攻略を計画するが、 その矢先、許貢の部下であった名も無い残党から襲撃を受け、重傷を負ってしまう。

その頃、民から慕われる于吉という仙人のような人物がいたが、 民から名声を奪われると思った孫策は、于吉に対して難題を押しつける。
しかしそれをことごとくこなした于吉を憎く思い、孫策は于吉を殺害してしまう。

重傷から一命を取り留めた孫策であったが、その後、于吉の霊が毎晩孫策の前に現れ、 傷を悪化させるように惑わせたという。ついにその傷が深くなり孫策は危篤になってしまう。

孫策の最期
死の間際、孫策は後継として実子の孫紹ではなく、弟の孫権を指名した。
その補佐役として「内のことは張昭に、外のことは周瑜に聞け」と、張昭と周瑜を指名した。
そして張昭ら幕臣には孫権の補佐を頼み、孫権には「天下の均衡争いに与するようなことは、 君は私のようにはできるまい。しかし、才能ある者を用い、江東を保っていくことについては、 私は君には及ばない。」と評し、臣下の言を重んじ江東を固く保つことに意を注ぐよう言い残したという。
孫策は享年26(横山三国志は27)。孫権はこのとき19であった。

●長坂の戦い

北方平定を果たした曹操は、自ら兵を率いて劉備討伐の構えをみせた。
一方、未だ拠り所のない劉備は、衆寡敵せずと判断し、 同族の劉表を頼り荊州に身を寄せ、国境の守備を任されていた。

・的盧
あるとき張武が反乱を起こしたため、劉備がこれを制圧した。
その際、張武が乗っていた馬「的盧」を見て、劉備はこれを気に入り戦利品とした。
「的盧」を劉表に送ったが、カイ越が「眼下に涙漕があり、額辺に白点がある。
これを的盧といい、乗り手に祟りをなす馬である」と忠告したため、劉表は的盧を劉備に突き返した。
後に伊籍も劉備に、この馬が凶馬であるとの忠告をしたが、 劉備は「死生命あり、どうして馬に運命を妨げることができようか」と取り合わなかった。

しかしその後、蔡瑁とカイ越が謀って宴会にかこつけて劉備を害そうとした。
劉備はなんとか逃げ出したが、蔡瑁に追いかけれられていた時、大きな川が道を塞いだ。
劉備は「的盧よ的盧!私の運命を妨げるか!」と鞭打つと、突然飛び上がり、 一躍対岸へとたどり着いたという。

劉備、徐庶を得る
一時、劉備は劉表から新野を与えられたが、ここで劉備の子、阿斗(後の劉禅)が生まれた。
新野にて、劉備はさらに単福と名乗る人物(徐庶)に出会い、軍師に迎え入れた。
また「水鏡先生」こと司馬徽という人物に会い、「臥龍・鳳雛を得れば天下も狙える」と劉備に告げ、 「臥龍・鳳雛は諸葛亮とホウ統のことだ」と教えたという。
劉備は志を遂げるため、さらなる人材を欲するようになる。

樊城にいた曹操軍、曹仁・李典が、やがて新野城を攻めてきた。
その際、徐庶は軍師として兵を指揮し、曹操軍五千を二千の兵で迎撃し、見事に打ち破った。
その後、報復と称して曹仁・李典が二万五千の兵で南下するが、 曹仁の八門金鎖の陣を見破り、完膚なきまでに叩き伏せた。

・劉封を養子に
逆に樊城を奪った劉備は、樊城の県令の劉泌と対面した際、 劉泌の甥である寇封を見て彼の器量に惚れ、養子に迎えた。
劉封を養子に迎えたことで、関羽が険しく苦り切った表情となり 「何故、寇封を養子とされたのですか?わが君には阿斗(劉禅)君がいるではありませんか? これでは劉表の諸子によるお家騒動の二の舞となり、わが君にもその危険性が及ぶのではありませんか?」と思わず不平不満を洩らしたという。
(正史では劉禅が生まれる前に劉封を養子にしている)

・徐庶、去る
樊城を奪われた曹仁・李典は許昌に戻った。
劉備軍の采配を執ったのが徐庶という人物であることが分かると、曹操は徐庶の母親を捕らえ、 程cの策により、徐庶の母親の筆跡を真似て偽手紙を書かせた。
止むなく徐庶は曹操に下ることになるが、去り際に劉備諸葛亮を推薦する。
劉備が徐庶に呼びに行かせようとすると、徐庶は「この人は、こちらから行けば 会えますけれども、無理に連れて来ることはできません」と言った。
また、曹操のために献策はしないという誓いを立て、劉備の下を去った。
しかし徐庶の母親は偽手紙を見抜けなかった徐庶を嘆き、自殺してしまった。
(正史では徐庶は母親が魏に捕らえられたために、やむなく魏に赴いており、 母親が自殺したという記述はない)

・三顧の礼
劉備は司馬徽、徐庶の話を聞き、諸葛亮を仲間に迎えることを考えた。
諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」という徐庶の言を思い出し、 劉備は自ら足を運び、諸葛亮の元を尋ねた。
しかし1度目、2度目の訪問時は諸葛亮が留守であったため、 3度目の訪問にしてようやく逢うことができた。 これが有名な「三顧の礼」である。

劉備、伏龍を得る
諸葛亮劉備に対し、曹操孫権と当たる事を避けて荊州・益州を領有し、 しかる後天下を争うべきだという、いわゆる「天下三分の計」を説いた。
これを聞いた劉備諸葛亮の見識にほれ込み、 劉備の懸命の説得に、ついに諸葛亮劉備に仕えることを決意した。
この時、諸葛亮は27歳であった。

劉表のもとで束の間の平安を得た後、志を遂げられぬ我が身に涙した劉備だが、 諸葛亮を得たことが転機となるのであった。

・劉gの苦悩
このころ劉表は病を患っていた、劉表の跡継ぎとして、 病弱な長男、劉gではなく、次男の劉jを推す動きがあり、 劉gは厄介者として身の危険にさらされつつあった。

劉gはわが身を救わんと、諸葛亮に策を乞うたが、 諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。
そこで劉gは一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、 登った後ではしごを取り外して、諸葛亮に助言を求めた。

観念した諸葛亮は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉gに外に出て身の安全を図るよう薦めた。
劉gはこれに従い、その頃ちょうど江夏(現在の湖北省武昌)太守の黄祖が孫権に殺されており、 空いていたこの地に赴任する事にした。
劉gの兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となった。

諸葛亮の初陣
先の戦で破れた曹操軍であったが、今度は夏侯惇率いる軍団が押し寄せてきた。
劉備軍は諸葛亮を軍師とし、博望にて敵をおびきよせ、伏兵と火計を巧みに用い勝利した。
これが諸葛亮の初陣となった。(物語によっては夏侯惇を破ったのは徐庶とするものもある)

208年、折悪しく劉表が病没した。劉gは蔡瑁・張允らの妨害で危篤の劉表の面会に許されず、 劉gは父の逝去に嘆き悲しみ、それを聞いた人々はみな悲しんだという。
相続争いの末に劉jが荊州を継いだが、曹操の大勢力の前に劉jは あえなく降伏し、樊城にいた劉備は孤立してしまう。

・長坂の戦い
諸葛亮は、劉jを討って荊州を奪ってしまえと進言したが、劉備は「忍びない」と言って断った。
攻め来る曹操軍の第一派は、諸葛亮の計略を用い、新野城に誘い込み焼き討ちした。
しかし大軍である曹操軍は、第二派、第三派と続き進軍し、 曹操軍の接近を知った劉備は、形成利あらずと見て逃走した。

劉備を慕う荊州の兵や周辺の住民も加わって、それは十万以上の集団となった。
そのため、その歩みは非常に遅く、すぐにでも曹操軍に追いつかれそうであった。
諸葛亮が住民を捨てて早く行軍するべきだと劉備に進言したが 再び「忍びない」と言って住民と共に行軍を続けた。

城を棄て、劉jの居城で荊州統治の拠点である襄陽へと向かったが、 城将・張允により矢を射掛けられて劉jから入城を拒否されてしまう。
この際に親劉備派の劉j配下の将、魏延が開城を強行するなど小競り合いを起こしたため、 諸葛亮の進言により、やむなく距離はあるものの軍備の豊富な江陵をめざす。

また形勢不利を補うため、関羽諸葛亮らの使者を立て続けに江夏へと派遣し、劉gへ助力を仰いだ。
一方、追う曹操軍は、五千の騎兵を選抜してたちまち劉備に急迫する。
そして当陽の長坂に差し掛かったところで、ついに捉えた。

趙雲、単騎駆け
劉備軍は潰走し、劉備の妻子は置き去られてしまう。
このとき単騎で引き返したのが趙雲である。

魏将・淳于導の下に囚れの身となっていた糜竺を助け出し、 その後に甘夫人を救出して張飛に送り届けた。
趙雲は再び曹操軍の中に飛び込む。

趙雲は途中、曹操軍の夏侯恩と対峙し、これを討ち取った。
夏侯恩は曹操の寵愛を受けており、曹操が持つ秘蔵の名剣二刀のうち、 「倚天の剣」は曹操自ら腰に帯び、「青スの剣」はお気に入りの夏侯恩に与えていた。
趙雲はこの「青スの剣」を奪い、自らのものとした。

趙雲曹操軍の大軍の中、劉備の息子阿斗(劉禅)と糜夫人を発見する。
しかし手負いの糜夫人は足手まといになるからと自ら井戸に身を投げ自殺、 趙雲は阿斗だけでも救わんと阿斗を抱え、ただ一騎で駆け抜け、 敵中を切り抜けてついに劉備の元へと無事に帰参した。
劉備はこの事に甚く感激したという。

張飛、長坂橋仁王立ち
さらに、逃れる劉備の殿軍を張飛が務めた。
長坂橋まで来た張飛は、仁王立ちするや「我こそは張飛。 いざ、ここにどちらが死するかを決しよう」と大喝一声した。
そして恐れを成した曹操軍が退却している隙に、橋を落として引き揚げた。
張飛の台詞は作品によってまちまちであるが、これによって 曹操軍が怯んだのは事実である。)

なおも迫り来る曹操軍の前に立ちふさがったのは、軍勢を率いて駆けつけた関羽だった。
曹操軍は退却し、窮地を逃れた劉備一行は、船団と合流して東の夏口へと向かう。

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