■ 蜀の北伐〜伏龍、天へ帰る ●蜀の北伐 ・諸葛亮、北伐へ 南方を平定した諸葛亮は、いよいよ魏を見据えていた。 226年、そんな折、魏の皇帝、曹丕は風邪を拗らせて肺炎に陥り、そのまま逝去してしまった。享年40。 また蜀の馬超も、諸葛亮の南征時期の前後に病死したといわれる。 (正史では馬超は222年に既に病死している。享年46。) 曹丕は死ぬ間際、司馬懿、曹真、陳羣、曹休に皇太子の曹叡を託した。 曹叡は曹丕の跡を継ぎ、即位した。 司馬懿の才略は、かつて曹操が警戒したほどであった。 諸葛亮もそれを恐れ、離間の計を仕掛けて司馬懿を失脚させてしまった。 ・第一次北伐 諸葛亮はこれを聞き、有名な「出師の表」を劉禅に上奏し、北伐へ乗り出した。(第一次北伐) 迎え撃つ魏軍の総大将は夏侯楙。だがこの人物は趙雲と魏延から「臆病で策無しの男」と酷評されている。 韓徳が4人の息子と共に8万の大軍を連れて夏侯楙の援軍にやってきたが、 息子の韓瑛、韓瑤、韓瓊、韓hを趙雲に討ち取られ、最後には自身も趙雲の槍で突き殺された。 夏侯楙は後退。蜀軍は進撃し南安城を取り囲むも、容易には落ちなかった。 そこで安定の太守、崔諒を策によって動かし、城を出たところを捕らえ、安定を落とす。 降伏を促せと崔諒を解放するも、崔諒はその裏をかこうとする。 それを見抜いた諸葛亮によって、崔諒が逃げ込んだ南安城の城門を開かせ、 一気に攻めて南安城を落とした。 夏侯楙も戦うがいいようにあしらわれ、蜀の王平に捕らえられた。 ・後継者を得る 蜀軍はさらに侵攻し、天水城にさしかかった。 天水の太守は馬遵、その配下に姜維がいた。 諸葛亮は天水も策を持って落とそうとするも、 姜維はこの策を読み、趙雲とも渡り合い、蜀軍は敗北してしまう。 麒麟児、姜維の噂を聞いた諸葛亮は、まず彼を得ようと考えた。 捕虜の夏侯楙を解放し、その命を助ける代わりに姜維が蜀に降ったという噂を流す。 馬遵、夏侯楙は、各県の降伏を耳にし、姜維も諸葛亮と内通しているのではないかと疑った。 姜維はたちまち居所がなくなり、やむなく蜀に降伏した。 (正史では、父親が戦死して困窮する姜維とその母を保護したのは馬遵であると言われている。) 一方、姜維の母親は魏に残っていたために捕らえられることとなった。 このとき母は、姜維に魏に戻るように手紙を書いたが、 姜維は「将来が諸葛孔明のもとで花開こうとしている」というのを理由に、 遂に戻らなかったと言われている。 その後、梁緒、尹賞の裏切りにより天水は開城され、 馬遵、夏侯楙は羌族の土地へ逃げて、それ以降は魏に帰らなかったとされる。 梁緒はさらに弟の梁虔を説き伏せ、上ケイも蜀に降らせた。 蜀は3城を得、尹賞を冀城の令、梁緒を天水太守、梁虔を上ケイの令とした。 ・西羌からの援軍 228年、先鋒は趙雲、ケ芝は趙雲の副将として箕谷道を守備した。 諸葛亮は斜谷街道を通ると宣伝し、魏の曹真はこれを真に受けて大軍でおしよせた。 諸葛亮は祁山を攻めた。 趙雲・ケ芝は囮となり、曹真の大軍に箕谷で敗北したものの、軍兵をとりまとめてよく守り、大敗には至らなかった。 趙雲は敗北の責任として鎮軍将軍に降格されたものの、 諸葛亮は趙雲の功績を喜び、絹を差し上げようとした。しかし趙雲はこれを断っている。 曹真は西羌に救援要請を送り、それを受けた国王徹里吉の命令により、 越吉元帥、雅丹は15万の兵を率いて蜀を襲った。 鉄車と呼ばれる兵器で蜀軍を苦しめるが、 諸葛亮の計略にはまり落とし穴に落ちたところを撃破された。 越吉は関興に斬り殺され、雅丹は捕らえられたが、羌族を懐柔しようと考えた諸葛亮により、 鉄車等の兵器を返却され、徹里吉への伝言を託され解放される。 雅丹は恩義に感謝しつつ退却していった。 ・司馬懿、再び立つ 連勝する蜀軍に魏軍は恐れ、曹叡は追放していた司馬懿を呼び戻した。 諸葛亮も恐れていた司馬懿は、抜擢されるや速やかに軍を整え、進軍した。 その頃、関羽を見捨て魏に降っていた孟達は、曹丕が亡くなって曹叡が後を継ぎ、 親友の夏侯尚らも亡くなったのちは次第に孤立していた。 同僚で魏興太守であった申儀とも仲が悪かったため、諸葛亮と内通して再び蜀に寝返ろうとした。 しかしこの件は申儀に察知され、曹叡に密告される。 これを聞いた司馬懿は孟達の元へ急行する。 この時孟達は「司馬懿が城に来るには、まず言上して帝意を汲まねばならず、 手続きも含めれば一ヶ月近くかかるだろう。 その間に我が方は十分に防備を固められます。」という内容の手紙を孟達は諸葛亮に送っている。 しかし司馬懿は、丁寧な書簡を送って孟達を迷わせた上で、 昼夜兼行の進軍を強行し、わずか8日で上庸までたどり着いた。 油断していた孟達は城を包囲され、申耽やケ賢らに次々と離反されてしまう。 ケ賢は孟達の甥とも言われ、密かに司馬懿に通じ、城門を開いてその軍を迎え入れた。 孟達は弓で徐晃の額を貫き、射殺すも、結局、孟達は斬られてしまう。 (正史では徐晃は227年に病死したとされる) 孟達が討ち取られるも諸葛亮の作戦は続行され、翌228年に漢中より北へ進軍を開始した。 この時に将軍・魏延は、分隊を率いて一気に長安を突き、 その後に諸葛亮の本隊と合流する作戦を提案したが、 諸葛亮はこれを受け入れなかった。 魏延はこの後、北伐の度にこの作戦を提案するが、いずれも諸葛亮により退けられている。 ・街亭の戦い 司馬懿は、張コウを先鋒に漢中の要衛・街亭へ向けて打ち立った。 諸葛亮はこの守備に誰を向かわせるかを考えていた。 諸将は実戦経験豊富な呉懿や魏延を推挙したが、 諸葛亮は聴き容れず、自らが寵愛する俊英の馬謖を差し向けた。 馬謖は確かに切れ者であったが、劉備は彼を信頼せず、白帝城で臨終する間際にも、 「馬謖は口先だけの男であるから、くれぐれも重要なことを任せてはならない」と諸葛亮に 厳しく念を押したといわれている。 しかし諸葛亮と馬良は義兄弟のちぎりを結んでいたと言われており、 そのため馬良亡き後、諸葛亮は弟の馬謖の面倒をよく見ており、昼夜親しく語り合ったという。 諸葛亮は念を押し、馬謖の軍の先鋒を王平に命じた。 しかし諸葛亮は道筋を押さえるように命じたが、 才に溺れた馬謖は指示に背き、山頂に陣を敷いてしまう。 副将の王平はこれを諫めたが、馬謖は聞き入れようとしなかった。 死地に布陣した馬謖は孤立し、張コウにより山の下を包囲され、 飲み水を確保できずに無様な大敗を喫し、街亭を失ってしまう。 王平の指揮する部隊だけは踏みとどまって殿軍を務め、整然と行動したため、 張コウは伏兵があるかと疑い、追撃の手をゆるめ、これにより全滅を免れた。 馬謖の失態により、蜀軍は総退却せざるをえなくなった。 魏と蜀に圧倒的な兵力差があり、諸葛亮は被害を抑えて退却するため、 城に引きこもって城内を掃き清め、城門を開け放ち、 兵士たちを隠して自らは一人楼台に上って琴を奏でて魏軍を招き入れるかのような仕草をした。 この「空城の計」により、司馬懿は諸葛亮に策ありと見て退却した。 (この空城の計は戦国時代、三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れた若き徳川家康も用いたとされる) 翌5月に諸葛亮は敗戦の責任を問い、馬謖を軍規に基づいて処刑する。 他の武将達の中には「馬謖ほどの有能な将を」と処刑を慰留する者もいたが、 諸葛亮は「軍律の遵守が最優先」と処刑に踏み切った。 手塩に掛けて育てた優秀な人材だったために、諸葛亮は処刑された彼を見て号泣したとされる。 これが後に「泣いて馬謖を斬る」と呼ばれる故事となった。 王平だけは馬謖の愚行を諌め、殿軍を務めた功績により、参軍・討寇将軍の地位を与えられた。 諸葛亮は、劉備より「馬謖を重く用いてはならない」という主旨の言葉を残されていた。 そして、その言葉を守らなかった自分の不明を嘆き、泣いたとされている。 諸葛亮は自ら三階級降格して丞相から右将軍になった。 右将軍として降格したものの、蜀を運営していけるのは諸葛亮以外におらず、 実質上は丞相の任務を執り行った。 蜀はこの戦いの後、暫し兵馬を休め国力の回復に努めた。 しかし229年、趙雲は病に倒れ、子龍はついに没した。 ・石亭の謀略 魏は司馬懿の進言により、蜀軍に備えて守りを固めた。 一方で呉は、旛陽の太守、周魴が魏に偽りの降伏をした。 228年、魏の曹休に対して七通の孫権への不満をつづった書状を送り、内通することを曹休に約束した。 曹休は当初、これを信じなかったが、周魴は自らの髪を切り、 呉に攻め込んでくれるように嘆願してきたため、信じてしまったという。 駆け付けたばかりの賈逵がこれを疑い、曹休に直ちに退却するように進言した。 だが、曹休は以前から賈逵と犬猿の仲だったため、これを聞かず、かえって賈逵を後陣に回した。 そして、曹休は周魴の謀略にかかって呉に攻め込み、石亭まで案内したところで周魴は姿を消した。 呉の指揮を執るのは陸遜。全jら呉軍は待ち伏せて挟み撃ちし、火計を用い、曹休軍に襲い掛かった。 賈逵は曹休の援軍に赴き、呉軍に大敗した曹休の窮地を救ったが、 曹休はこの時、賈逵に謝罪しないどころか、賈逵の援軍が遅過ぎたと逆恨みしたと言われている。 やがて曹休は、敗戦のショックによって発生した悪性の腫瘍が原因で間もなく洛陽で死去した。 賈逵もその後、病にて急死した。 司馬懿も呉へ兵を率いていたが、石亭の敗戦を聞き引き返した。 ・第二次北伐 蜀が軍馬を休めて半年。諸葛亮は後出師表を提出し、再度北伐を決行した。 このとき諸葛亮は48歳。(第二次北伐) 司馬懿は次に蜀が攻めてきたときの備えとして、蜀が目指すであろう陳倉城の守備を前もって固めていた。 陳倉城の守備将軍はカク昭。 その守りは堅く、諸葛亮は衝車、雲梯、櫓などの兵器を用いて本格的な攻城戦を行った。 しかし陳倉城は崩せず、さらに地下を掘って進むも失敗し、 陳倉を落とせないまま攻防戦は二十余日に及んだ。さすがの諸葛亮も攻めあぐねた。 対する魏は、再度曹真が迎撃に向かう。曹真は猛将、王双を引きつれ、陳倉城へ向かった。 王双の前に蜀将が次々に討ち取られ、諸葛亮も頭を悩ませた。 ある日、蜀将、姜維の腹心と名乗るものが魏陣を訪れ、姜維からだと言って手紙を渡した。 その内容は、「もしも帰参が許されるならば、蜀軍の食料庫を焼き払う所存だ」というもので、 曹真はこれを大いに喜び、姜維の帰参を許すと伝えさせたが、 費耀は諸葛亮の策略では、と疑った。 しかし曹真も譲らず、結局費耀が兵を率いて姜維に出会うことにして、 曹真は本陣に留まることにした。 初めのうちは、姜維の話どおり順調に事が進んでいたが、 費耀が異変に気づいた時にはすでに時遅く、退路を絶たれ蜀軍に攻め込まれた。 戦いの大勢は決したが、費耀は降伏を拒み自決した。 結局、五万の魏兵のうち三万以上が討ち死に、生き残った残りの兵も皆、蜀に降った。 魏軍は守りを固め動かない。蜀は兵糧不足のため、退却を余儀なくされた。 これにつられ王双は追撃するが、諸葛亮の策を受けた魏延によって斬り殺された。 曹真は蜀の諸葛亮の圧倒的に優れた知略の前に連戦連敗を喫し、 さらに諸葛亮相手に奮戦する同僚の将軍司馬懿と自らを比べ、能力の差に愕然としていた。 決して暗愚ではなく、かつ人の意見を聞き入れる度量もあるのだが、 なまじ聡明なためになおその格差がわかって心中苦しみ続け、 しまいに腹心の王双が斬られてしまったため、心身的に憔悴してしまっていた。 ・第三次北伐 229年、呉の孫権は皇帝を称し、呉の初代皇帝(太祖)となるとともに、元号を黄龍と改めた。 やがて陳倉城のカク昭が重病に倒れた。その隙を突き、諸葛亮は陳倉城を急襲して落とした。(第三次北伐) (正史ではカク昭が病死したため、魏軍が陳倉の防備を放棄した。) カク昭は臨終の際、息子に「私は将軍であったから、将軍などたいしたものでないことを知っている。 私は陵墓をあばいて、その木を使い武器を作ったこともあるから、 手厚い葬式など死者には無用のものであることも知っている。 お前は必ず私が今着ている服のまま埋葬しろ。 ただ生者にのみ居場所があるのであって、死後に居場所などあるはずがあろうか。 ここはもとの先祖代々の墓からは遠いが、東西南北お前の都合のいいところに埋葬するがよかろう」と 言い遺したという。彼の剛直な性格を示すエピソードである。 諸葛亮は武将の陳式に武都・陰平の両郡を攻撃させた。 これに対して魏将郭淮が救援に向かったが、諸葛亮自身が出撃して彼の退路を断たんとしたために撤退。 陳式は無事に二郡を平定した。この功績により、再び丞相の地位に復帰する。 229年、この北伐の戦いで、張苞は誤って谷へ転落し、その怪我が元で死んでしまった。 (正史では張苞はもっと早くに死んでいる) 攻めあぐねた蜀軍は、今回も撤退した。 ・第四次北伐 ある日、魏の劉曄は、曹叡に蜀漢の討伐を進言したが、それを重臣に公言しなかったために疑われた。 曹叡も疑問に思ったので、劉曄を召し出した。 参内した劉曄は席払いを望んだ上で曹叡に「陛下、わが国の機密を家臣といえども 簡単に漏らしてはなりませぬ」と説き伏せ、国家機密の重要性を曹叡に諭した。 魏は先手を打たんと、蜀の漢中を目指した。蜀はこれを迎撃せんと兵を動かした。(第四次北伐) 魏の大将はまたも曹真。司馬懿も軍に加わった。 この戦いで陳式は、魏延と共に軍令を無視して魏軍を追撃し、 その結果、大敗して多くの兵を失ったことから、諸葛亮の怒りを買って斬首された。 曹真は以前の心身的な憔悴があり、また司馬懿との賭けで負けてしまい、 ついには病に倒れ、最後には諸葛亮の罵言の書状を読んだショックで死んでしまった。 曹真が死ぬと、その後任として司馬懿が選ばれ、蜀の諸葛亮と対戦する。 攻める諸葛亮、守る司馬懿。激しい対戦が行われたが、 決着をつけるだけの決定打がつかめぬままであった。 楽進の息子・楽チン、張遼の子・張虎は、蜀軍に捕らえられ、裸にされて陣に戻された。 (演義では諸葛亮に翻弄される凡将として描かれているが、 正史では楽チンは父に劣らぬ武勇と剛毅果断な人物で、父に劣らぬ人物として高く評価されていた。) しかし長雨が続き、食糧輸送が途絶えたことにより、蜀軍は撤退を余儀なくされる。 231年、諸葛亮率いる蜀漢の軍勢が祁山から全面撤退を開始したため、 近くの略陽にいた司馬懿は張コウに追撃するように命じた。 『魏略』によると張コウは「軍法にも敵を囲む際には必ず一方を開けよとある。 追い詰められて退却する軍を追撃してはならない」と反発したが司馬懿は聞かず、 やむを得ず出撃したところ、蜀軍の伏兵の攻撃にあい、 敵の射撃を受ける中で矢が右ひざ(『魏略』では右股)に当たって、 それが原因で間もなく死去した。 食糧輸送の一切を監督していた李厳(この時は李平)は、諸葛亮を呼び戻させる一方、 彼が帰還したところで「食料は足りているのになぜ退却したのですか?」と聞き返すなど、 自らの失敗をごまかそうとした。 しかし諸葛亮は出征前後の手紙を出して李厳の嘘を見破り、彼を庶民に落とした。 梓潼郡に流罪された李厳はその後、諸葛亮が死んだ後、 「もう二度と復職できない」と嘆き、諸葛亮の後を追うように死去したという。 また関興は、第4次北伐には病のため参加できず、ほどなく病没しまう。 諸葛亮はこの訃報を漢中で受け、悲しみのあまり倒れてしまったという。 ●伏龍、天へ帰る ・第五次北伐 成都に戻った諸葛亮は、国力の充実に力を注ぐ。 軍勢を養い兵糧を蓄えた後、再度、北伐を願い出た。(第五次北伐) 234年、再び北伐に赴いた諸葛亮は、泰嶺山脈を抜けて五丈原に布陣した。 そこで兵士たちに屯田させ、さらに自ら開発した木牛・流馬という運搬具を用いて 兵糧を確保できるようにし、長期戦に備えた。 対する魏は司馬懿を送り出し、諸葛亮と戦う。 この戦いで蜀の呉班は、魏の武将・張虎と戦い、敗れて戦死したとされる。 また蜀の廖化は、諸葛亮の策により司馬懿を捕らえる所まで追いつめるが、 司馬懿がわざと逃げ道の逆方向に落とした兜を拾い、逃げ道の逆方向を追ったために、 結局は司馬懿をあと一歩の所で逃した。 諸葛亮は廖化の戦功を評価したものの、もし関羽なら司馬懿を捕らえることが出来ただろうと思い耽ったという。 ・五丈原の戦い 司馬懿は護りを堅め、持久戦の構えをとった。 諸葛亮は、呉で帝位に就いた孫権に北征軍を興すよう要請し、 合肥新城を攻撃するという色よい返答を得る。 さらに諸葛亮は、司馬懿に婦人の服や装飾品を送って挑発した。 しかし司馬懿はこれに乗らず、逆に諸葛亮の使者に質問し、 諸葛亮が軍務を細部まで見ており、激務をこなしていることを聞きだした。 司馬懿は、挑発で煽られ勇む魏の諸将を鎮めるために、 都から堅守を命じる勅使を得て、じっと静観の姿勢を貫いた。 ・諸葛亮の最期 司馬懿は、諸葛亮の様子を聞き、その命も長くはないと察していた。 諸葛亮も焦っていた。激務に消耗し、天命尽きんとしていることを、彼自身がよく知っていた。 一方、合肥新城を攻めていた呉に対し、 魏の満寵は合肥の新城の守備を撤去して敵を寿春で迎え撃とうとしたが、 曹叡は合肥、襄陽、祁山は魏の重要な防御拠点であり、 敵は決して落とす事はできないので合肥の新城で敵を迎え撃つように指示した。 孫権は合肥の新城を攻撃したが、張穎らが奮戦し、曹叡が戦場に到着する前に孫権は撤退した。 諸葛亮の元へ、呉が合肥新城から撤退したとの報が届く。 友軍の思わぬ脱落に、落胆した諸葛亮は病に倒れた。 自らの天命に抗おうと、天命を伸ばす儀式を行う。 それを察した司馬懿は祈祷を止めるために戦を仕掛ける。 魏延は祈祷の事を全く知らなかったため、諸葛亮の所へ乗り込んで魏軍が攻め込んできたことを伝えようとした。 その時に魏延は祭壇を荒らしてしまい、諸葛亮の祈祷は失敗する。 祈祷に参加していた姜維が魏延を斬ろうとするが、 諸葛亮は「これは天命なのだ」と言い諦めてしまった。 その後攻め込んできた魏軍は魏延によって撃退された。 再起かなわず、諸将に後事を託すと、ついに諸葛亮は没した。234年8月。享年54。 ・死せる諸葛、生ける仲達を走らす 蜀軍は諸葛亮の死を伏せ、撤退にかかった。 諸葛亮は、退却にあたり楊儀に統御をまかせ、 魏延に敵の追撃を断たせ、もし彼が命令に従わなければ、かまわず軍を進発させよと指示していた。 楊儀は費イに頼んで、魏延の意向を探らせた。 魏延は自分が指揮官となって北伐を継続するよう主張し、 楊儀の指揮下に入ることを拒否したので、楊儀らは予定通り魏延を置き去りにして撤退を開始した。 諸葛亮が没したと見た司馬懿は、これを追撃する。 しかし蜀軍は諸葛亮から与えられていた策を用い、 あらかじめ作らせておいた木像の諸葛亮を押し出し、すぐ反撃に転じたため、 さては諸葛亮の策略かと司馬懿は慌てて兵を退いた。 この事で人々は諺を作り「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と言った。 ある人がこの話を司馬懿に報告すると、 司馬懿は「生者を相手にする事はできるが、死者を相手にするのは苦手だ」と言ったという。 蜀軍は、その間に無事退却を遂げた。のちに諸葛亮の陣の跡を見た司馬懿は 「彼こそ天下の奇才」と感嘆し、魏軍を率いて長安に帰還する。 かくして天下の大勢は去った。 ・魏延の謀反 諸葛亮亡き後、諸葛亮も予想していた通り、魏延が蜀から離反する。 魏延は勇猛であったが、かねてより性格に問題があり、 諸葛亮も劉備に、しばしば魏延を亡き者にしようと進言していた。 蜀軍の撤退にあたり、魏延と犬猿の仲である楊儀が、 魏延を置き去りにして撤退したことによる不満が引き金をひいた。 魏延は楊儀が蜀に戻れないよう先回りして、橋を焼き落とした。 さらに、楊儀が反逆したと劉禅に上奏したが、楊儀も魏延が反逆したと上奏した。 相反する二つの上奏を受けた劉禅は、どちらが正しいかを董允と蒋エンに問うた。 二人はいずれも楊儀の肩を持ち、魏延を疑った。 楊儀は王平を先鋒にして魏延に当たらせ、王平が魏延の兵士に向かって 「公(諸葛亮)が亡くなり、その身もまだ冷たくならないうちに、 お前たちは何故こんな事をしようとするのか!」と一喝すると、魏延の兵士たちは、 彼を見捨ててことごとく逃げ去った。 取り残された魏延は南鄭城門前に追い詰められることとなった。 しかし、諸葛亮の命で魏延の味方についていた馬岱によって、魏延は斬られた。 (正史では、王平が魏延の兵士を離散させ、取り残された魏延は息子たち数人と漢中に出奔したが、 楊儀は馬岱に追跡させ、魏延父子を斬り殺させた。 魏延の首が楊儀の元に届いた時、楊儀は、「愚か者め、もう一度悪さをやれるならやってみろ」と言って首を踏みつけたという。 こうして魏延の三族は処刑された。) 蜀の北伐は、諸葛亮の死によって一時止む。 劉禅は、その死を悲しみ、遺言どおり定軍山に手厚く葬った。 蜀は北伐で疲弊した国力を回復するため、内政に専念する。 |