■ 三国志の主な戦い ・三国志時代に行われた、主な戦闘です。できるだけ時代の流れ順に紹介しています。 ・執筆者は三国志に関して専門的な知識を持っているわけではなく、あくまで個人的に情報を調べ、まとめ上げたものにすぎません。 三国志に詳しい方で、内容に誤りがある等のご指摘をいただけますと、辞典がより完璧なものになると思っております。 是非とも、ご協力をお願い致します。 ● 官渡の戦い 200年に官渡(現在の河南省中牟の近く)に於いて曹操と袁紹との間に起きた戦い。 赤壁の戦い・夷陵の戦いと共に『三国志』の時代の流れを決定付ける重要な戦いであった。 狭義では、官渡で行われた戦いのみを差すが、広義では、 袁紹と曹操の一連の抗争を含む大きな戦いである。 白馬の戦いを前哨戦とし、袁紹の元に居た劉備は、汝南方面で攪乱戦を起こすなど、 中原一帯を巻き込んでいた。 ・事前の経緯 当時は後漢皇帝は名前だけの物となり、各地で群雄が割拠する戦乱の世だった。 次第に群雄たちが淘汰される中で勝ち残ってきたのが、曹操と袁紹である。 曹操は宦官の家系の出身だったが、父親の曹嵩が三公の一つの太尉まで昇っており、 曹操自身も類まれなる才覚により頭角を現し、献帝を手中に収めたことで道義的な正当性を手にし、 呂布・袁術・張繍といった者たちを下して河南から江蘇の長江以北にかけた地域を統一した。 一方、袁紹は四世三公と呼ばれる名門中の名門・汝南袁氏の頭領であり、 その名の下に集まった人物たちを元手に青・冀・幽・并の四州(河北・山西・山東)を支配し、 曹操との対立を深めていった。 199年には劉備が徐州にて曹操へ反乱を起こし、袁紹へと救援を求めてきたことがあった。 この時に田豊はこの機会に曹操を滅ぼすべしと強く主張したが、袁紹は子供が病気だからと断った。 この時、既に曹操は官渡に布陣していたのだが袁紹が動かないと見ると翌年に自ら出陣して 劉備を追い散らし、敗れた劉備は袁紹の元に身を寄せ、劉備の家臣関羽は曹操の捕虜となり、 曹操の客将として過ごすことになる。 ・官渡の戦い 関羽が曹操に降った翌月、袁紹は自らの支配する地域に檄文(陳琳により書かれたもの)を出し、 曹操との決戦を断行した。 この時に田豊は「曹操は劉備を破って、許(許昌、許都。曹操の本拠地で献帝の所在地)は 空城ではなくなりました。 持久戦に持ち込むのに越したことはありません」と言って、 自らの本拠地を守りながら曹操の後ろを撹乱させれば三年待たずして勝てると言ったが受け入れられず、 元より仲の悪かった逢紀から讒言を受けて投獄されてしまった。 更に翌2月に顔良を派遣して白馬(黄河南岸)に布陣していた曹操軍の劉延を攻撃させた。 この時に沮授が顔良を起用するのは良くないと諌めたが、袁紹は聞き入れなかった。 曹操側は荀攸の進言に従って、袁紹本陣を攻める振りをすることで袁紹軍を分散させることに成功し、 孤立した顔良の軍に関羽・張遼を派遣して撃破した。顔良は関羽によって討ち取られた。 業を煮やした袁紹は自ら渡河し、南阪で曹操軍と対峙することになる。 官渡戦況図袁紹は今度は文醜に曹操の陣を攻撃させるが、曹操は再び荀攸の進言に従って、 輜重隊をおとりに使い、文醜軍の隊列が乱れたところで襲い掛かり、文醜を討ち取ることに成功する。 なお、三国志演義では関羽が討ち取ったこととなっている。 この時点で両軍は一旦体勢を立て直し、曹操軍は官渡へ引き返して、 袁紹は陽武(河南省原陽県)に軍を進めた。 この時に沮授が「北(袁紹陣営)は数は多いが、勇猛さでは南(曹操陣営)に及びません。 しかし食料の点では南は少なく、北に及ばない。南は速戦、北は持久戦が有利です」と説いたが、 受け入れられなかった。 袁紹は曹操軍を攻めて、東西数十里に渡る陣を布いて少しづつ前進すると言う戦術で 曹操の陣営を圧迫した。曹操も陣営を分けて合戦したが、敗れ、後退した。 袁紹は城壁に土の山を築いたり、地下道を掘ることで城壁を無効化しようとしたが、 曹操も内部に同じものを造り対応した。更にやぐらを築いて城内に矢を射掛けた。 曹操軍はこの攻撃に苦戦したが、曹操は発石車を作り、やぐらをことごとく破壊した。 戦況は持久戦の様相を呈し始め、曹操陣営の食料は日に日に少なくなっていった。 弱気になった曹操は本拠地の留守をしていた荀ケに対して手紙を出して撤退したらどうかと相談したが、 荀ケはこれを強く諌めて、必ず勝てると曹操を励ました (「荀ケ伝」には曹操は引き返すことで袁紹軍をおびき寄せるつもりであったと書かれているが、 当時の状況から考えてそれは考えにくく、英雄らしからぬ弱気を見せた曹操を弁護したものであろう)。 この時に南方の汝南に於いて曹操の形勢悪しと見た劉辟が曹操に対して反乱を起こし、 袁紹はこれを味方につけるために劉備を派遣した。曹操は曹仁を派遣してこれを打ち破った。 敗れた劉備は劉表の元に逃げ込み、その後しばらくは髀肉の嘆をかこつことになる。 その間に曹操軍の食糧不足は更に深刻なものとなっていた。 その頃、袁紹陣営の許攸は袁紹に対して軽装兵を用いて許を襲撃することを説いたが受け入れられず、 また家族が罪を犯して処刑されたことで袁紹に嫌気がさして曹操陣営に投降してきた。 許攸は淳于瓊が守る袁紹軍の大兵糧基地・烏巣の守備が手薄なことを教えて、そこに奇襲をかけるように進言する。 曹操は即座に行動を起こし、自ら歩騎五千人を率いて強襲した。 淳于瓊は捕らえられ、鼻を削がれた。曹操が「なぜ君は敗北したのか」と聞くと、 淳于瓊は「勝敗は天に委ねるものである 何を問うことがあるのか」と答えた。 曹操は淳于瓊を帰服させようとしたが、先に帰服した許攸が 「鏡を見る度に淳于瓊は我らに恨みを抱くでしょう」と讒言したため、斬首された。 食料が襲われたことを知った袁紹軍では郭図が「今、 曹操の陣営は手薄だからこれを攻めれば勝てる」と言い、 張コウは「敵陣は堅固なので勝てません。それよりも早く淳于瓊を救援するべきです」と言った。 袁紹はこれに対して両方の作戦を採用するという優柔不断なことを行った。 さらに悪いことに、烏巣救援を主張した張コウ・高覧を曹操軍の本陣強襲に向かわせるという (曹操本陣を易々と破ってしまえば郭図の献策が正しく、 張・高二将の主張は誤りであったと実証してしまうため)袁紹の無神経とも言える指揮が 災いしたか、淳于瓊と淳于瓊を救援した部隊は破れ、張コウと高覧は曹洪に防がれ、 張コウと高覧は袁紹を見限って曹操に帰服するという最悪の結果となった。 これにより袁紹軍は崩壊、官渡の戦いは終わった。 敗因は戦術的に見れば、袁紹側は大兵力を有していながら決断力に欠け 大兵力の利点をあまり生かすことができなかったことや、 文醜が本来は曹操の隊を攻撃すべきはずであったところなのに、 おとりの輜重隊に気をとられるなど指揮が徹底していなかったこと、 裏切った許攸が兵糧の大規模な補給計画という軍事上の最高機密を曹操側にもらしてしまったこと、 何より張コウ・高覧が裏切ったことである。 ・官渡後 翌201年、袁紹の敗北を見た冀州の各地で反乱が多発するが、 袁紹はこれを収め曹操と再び倉亭で戦うが再び敗れる。 八百騎余りの兵を連れて敗走するが失意のうちに翌年に病死する。 袁紹死後、かねてよりの懸案であった長子袁譚と末子袁尚との後継者争いが勃発。 激しく争った結果、袁譚が敗れて曹操を頼り、曹操により袁尚が滅ぼされ、返す刀で袁譚も滅ぼされる。 そして曹操は河北のほとんどをも支配する当時最大勢力へとのし上がる。 見てきたように袁紹にも勝利のチャンスはいくらもあった。 しかしそのことごとくを逃したのは袁紹の度量の問題であり、 戦前に郭嘉が評した「袁紹の十の敗因、曹操の十の勝因」がそのまま当てはまる。 袁紹は敗れて逃げ帰る際に「田豊がいればこんなことにはならなかったであろうに」と慨嘆したが、 その後で逢紀から「田豊は敗北したことで自分の予想通りだと笑っております」と讒言を受けて、 田豊を処刑している。 なお官渡の兵力について『三国志』の陳寿が書いた本文部分には袁紹軍十余万、 曹操軍一万弱と書かれているが、これに対して裴松之は疑問の声を上げている。 その理由として 曹操が旗揚げ時に既に五千の兵を持ち、その後に旧黄巾軍三十万を降しているし、 他にも数多くの勢力を併呑している。それからすると一万とは少なすぎる。 袁紹の軍十万に対して一万で数ヶ月に及んで対峙できるものであろうか? 袁紹軍が崩壊した後に、袁紹軍の兵士八万を生き埋めにしたとあるが、 一万足らずの兵士で、いかに混乱していたとはいえ八万人を捕縛できるとは思えない。 などを挙げている。 また、より本拠地に近い曹操軍が一万の兵士が食べる食料を十分に用意できず、 袁紹軍が食糧不足の心配をしなかったと言うのも疑問である。 官渡の戦いの兵力は曹操が劣勢であったのは間違いないが、十倍の兵力と言うのには疑問が残る。 これはおそらく、曹操の軍略が優れていたということを誇張するためにこのような 記述がなされたのではないかとの推測も可能である (後に勝者を劣勢に見立てることはよく見られることである)。 なお、『魏書』の『国淵伝』には賊軍を破った場合、 それを報告する上奏文では一を十と誇張して記載することが この時代の通例となっている旨の記述がある。 ちなみに、この戦いの後も、勢力では袁紹のほうがやや勝っていた。 袁家の滅亡を決定付けたのはその後の兄弟間の争いによる内部分裂であった。 (Wikipediaの官渡の戦いの頁から参照) ● 長坂の戦い 建安13年(208年)、曹操が新野の劉備を十万の兵を以って攻めた事による。 両軍の戦闘が行われ、一連の物語の舞台となったのが荊州南郡当陽県の長坂(長坂坡)であった事から、 長坂の戦い、又は当陽の戦いと呼ばれる。 ・概要 華北平定後、漢の丞相・曹操は中華南部、即ち荊州方面へと目を向けた。 よって善政を布く時の荊州刺史・劉表への攻勢に出た曹操は、劉表と荊州覇権を賭けて争うこととなり、 荊州方面へ一族の重鎮・曹洪を大将として別働隊を派遣する。 この最中事態は一変、劉表は病に斃れた。 生前、家督相続の問題から荊州統治自体に禍根を残していた劉表は、 この期に及んで家中分裂を招き、曹操へ隙を与える結果となってしまっていた。 この劉表死去に伴って荊州の有力豪族である蔡氏棟梁・蔡瑁を筆頭に荊州有力豪族らは蠢動を始める。 彼等は蔡瑁の姉で劉表側室の蔡夫人と謀り、蔡夫人の子の劉表次男・劉jを擁立、 先代の遺言で本来家督を相続すべきであった長男・劉gを退け劉jを正式な後継者として 家督を継承させたのだった。 荊州での内紛を尻目に、曹操は十五万ともいう大軍を南下させており、 家督を継いで曹操へ対抗する意思のあった新進気鋭の劉jも、 退けられた兄や、先代から荊州の譲渡を勧告されていた客将・劉備の動向を懸案、 曹操への帰順を主張する功臣・カイ越や韓嵩、蔡瑁に諮る。 結局、曹操陣営が前線の新野を陥落せしめると劉jは曹操降伏を決意するに到る。 これにより荊州の覇権は曹操の手に渡ったのであった。 ・新野での戦闘 当時、先代・劉表の庇護下に於いて、客将として対曹操戦線を新野に守備していた劉備は、 劉jの降伏によって最前線で孤立する事となってしまった。 これを好機と見た曹操軍の攻勢を前にして、前腹後背を囲まれた新野は風前の燈であった。 怒涛の如き勢いを以って南下する曹操軍は先鋒を猛将・曹仁と曹洪に任せ、 新野城主・劉備は逃亡、守兵の雲散した文字通り空城の新野へと意気揚々と入城する。 しかし、これが劉備幕下の参謀・諸葛亮の計略であった。 事前に一計を案じ、巧妙に空城と偽装された新野城へと誘われた曹操軍は城中で伏兵に遭い混乱、 見事に撃退され、鋭を挫かれた曹操軍は一時撤退した。 劉備は曹操軍を一時は撤退せしめたものの、 続く第二波、第三波に対して新野の守備は不可能であると判断、 曹操軍の再来前に新野を放棄すると共に、劉j領への後退を余儀無くされた。 ・逃避行の開始 劉備は先ず新野後背の樊城へと入った後、劉jの居城で荊州統治の拠点である襄陽へと向かった。 しかし、城に近付いたところで城将・張允により矢を射掛けられて劉jから入城を拒否されてしまう。 この際に劉j配下の将である親劉備派武将の魏延が開城を強行するなど、城内で小競合いがあった。 一方、劉jの曹操への降伏を知ると共に、いよいよ進退窮まった劉備は、 諸葛亮を首とした幕僚と共に対応を協議、諸葛亮の進言によって一路江陵を目差す事を決定すると共に、 義弟・関羽、諸葛亮らの使者を立て続けに江夏へと派遣し、劉gへ助力を仰いだ。 ・長坂会敵からその後迄の顛末 一路南下する劉備らは、新野より随う領民を擁した為に進行に遅れが生じてしまう。 途上の当陽県長坂に差し掛かった際、遂に曹操軍に追いつかれ攻撃を受けてしまった。 曹操軍先鋒・文聘の攻撃、続く曹操軍の攻勢を劉備の義弟・張飛が殿として防戦していたが、 曹操軍の波状攻撃を前にして敗退を余儀無くされる。 劉備は随って来た領民、妻子を見捨てて一刻も早く撤退、 勢力を整え再起を図ろうとしたが離散する配下将軍は数知れず、 参謀の糜竺や簡雍らとも逸れてしまっていた。 そして、混乱の最中に劉備の妻・糜夫人、甘夫人や劉備嫡子・阿斗(後の劉禅)らは 魏兵に生け捕られてしまい、これを重んじた劉備旗下の将軍・趙雲は、 迫る曹操の軍へと馬首を返すと単騎で夫人らの救出を試みる。 その後、魏将・淳于導の下に囚れの身となっていた糜竺、 その後に甘夫人を救出して張飛に送り届け、趙雲は糜夫人・阿斗の捜索の為に迫り来る 曹操軍へと再び馬首を返した。 途中、立ちはだかる幾人かの曹操軍の将を斬り、ややあって民家付近で倒れていた糜夫人を発見する。 糜夫人は重傷を負っており、足手まといになるとして趙雲に阿斗を託すと、 傍に在った井戸へと投身自殺を図ったのだった。 趙雲は、阿斗を擁して劉備の元へと無事に帰参し、劉備はこの事に甚く感激したという。 その後、長坂橋に威を張る張飛の気迫と諸葛亮の計略とを懼れた曹操軍は追走が侭ならず、 後に長坂橋が焼き払われるを以って劉備軍の兵力寡少を知ったという。 これにより曹操軍を一時的に足止めする事に成功した劉備一行は、 先行していた関羽・諸葛亮らの水軍と合流、長江沿いに南下した。 斯くして、虎口を脱した劉備は曹操からの難を逃れ、夏口へ到達する。 ここに於いて劉gと会見、江南の領主・孫権の命で荊州情勢を探りに来た魯粛と落ち合うと、 事態は後の赤壁の戦いへと遷移してゆく事になる。 又、先の長坂に於ける功で趙雲は牙門将軍へ昇進、後も蜀の忠臣として活躍する。 (Wikipediaの長坂の戦いの頁から参照) ● 赤壁の戦い 208年の中国三国時代に曹操の軍(15万)と劉備・孫権連合軍(推定5・6万)の間で長江の赤壁(現在の湖北省)で起きた戦い。 連合軍側の勝利で終わり、曹操の天下統一の野望は一時頓挫する。 ・史実における赤壁 赤壁の戦い要図208年7月、荊州の牧であった劉表を攻める為、曹操は兵を率いて荊州へ南下を始める。 8月、劉表が死ぬと策略により劉表の跡を継いだ次男・劉jは9月に降伏し荊州を曹操に譲り渡してしまう。 孤立した劉備は、長江づたいに南下し、長坂で曹軍に追いつかれるが、何とか難を逃れ夏口へ到達する。 そこで劉表の長男・劉gと合流し、孫権の命で荊州の動向を探りに来た魯粛と落ち合う。 曹操は劉備の新野駆逐に伴いそのまま南下し、兵を長江沿いに布陣する。帰営した魯粛の報告によって、その兵百万と聞き孫権は驚愕する。 しかし周瑜は、その実は十四、五万しかおらず、兵は疲弊しきっているうえに、疫病も発生しており、勝機はこちらにある、と孫権に説いた。 劉備からは諸葛亮、孫権は魯粛を使者として同盟を結び、孫権は周瑜・程普ら数万の水軍を派遣、一方の曹操軍も荊州軍閥の水軍を動員、 これを率いて長江を下り、両軍は赤壁に於いて接触し、一戦を交え周瑜らは曹操を撃破、曹操は後退し烏林に陣を張り、 周瑜らは長江を挟んで対峙する。 孫権陣営の将・黄蓋は、敵の船団が互いに密集していることに注目、火攻めの策を進言した。 そして自ら偽りの降伏を仕掛け、曹軍が油断した隙をつき、油をかけた薪を満載する船で敵陣に接近して火を放った。 折からの強風にあおられて曹操の船団は燃え上がり炎は陸上にまで達し、船団は大打撃を受け、 水路を通じて揚州に侵攻することが不可能となった。 『江表伝』はこのとき周瑜らが渡渉し曹操の陣に追撃をかけ曹操軍は潰走したと伝えるが真偽は確かではない。 曹操は敗残兵をまとめて江陵に撤退した。 孫権はこれを機に合肥方面の戦線でも攻撃を開始したが、曹操は張憙を救援に派遣すると孫権は即座に撤退した。 合肥方面の戦線に関する史料の記述は整合性がとれていないことが多いが(張憙派遣のタイミングなど)、 赤壁の戦い以前から、曹操、孫権共に防御的に戦線を維持していたところを、 赤壁で勝利を得た孫権がこの方面でも侵攻を開始したととらえるのが自然であろう。 この後合肥は魏呉間の最大の激戦地となる。曹操は慣れない江南の地で疫病の流行や兵糧不足に悩まされたこともあり、 江陵を曹仁に、襄陽を楽進に託し、自らは許都へと舞い戻った。なお、周瑜の会議等での発言などからすると、 曹操軍はかなりはやくから疫病になやまされていたようで、烏林から江陵への撤退の主因も疫病であった可能性がある。 連合軍はその後、水陸両面から江陵に進撃し、曹仁は出撃し両軍は夏水を挟んで対峙した。 劉備は関羽を北に派遣し、曹仁の後方を絶つ形勢を示したが曹仁は軍を分けて楽進と連携してこれに対応した。 甘寧は夷陵を奪取し、楽進と曹仁の連携を絶つ策を献策し、周瑜はこれを入れて甘寧は数百人の部隊で夷陵を奪取した。 なお、甘寧もまた天下二分の策を献策した武将であり、また夷陵は益州への入り口といえる地点でもあるということは興味深い。 曹仁は甘寧に対し即座に五千人規模の部隊を派遣し夷陵を逆包囲した。 このとき甘寧は降兵とあわせて僅かに千人あまりの兵を率いているだけであったが、包囲されても泰然として指揮をとった。 周瑜は呂蒙の献策をいれて、凌統の部隊に曹仁との対峙をまかせ(留守部隊に凌統を残したのは甘寧との関係に配慮したものと思われる)、 本隊をもって夷陵を包囲する魏軍を攻撃し、夷陵を完全確保することに成功した。 その後、周瑜らは夏水を渡渉し曹仁と交戦し曹仁を江陵に押し込むことに成功したが、その際周瑜は矢を受け負傷し指揮不能に陥る。 さらに曹仁は呉軍数千に包囲された牛金の部隊を直属の勇士数十騎を率いて救い出す。 曹仁は周瑜負傷を知り再び江陵から出撃し、呉軍を攻撃したが周瑜は意識を朦朧としながら立ち上がり敵味方に周瑜健在を示した。 これにより曹仁はこれ以上江陵に篭城することは不可能と判断し撤退した。 この間、当初は曹仁攻撃に参加していた劉備軍は周瑜により油江入城を命じられ、その後江南四郡を短期間に平定し大きく力を伸ばした。 漢丞相・曹操に勢力、兵力共に数段劣った孫権・劉備連合陣営の完全勝利ということもあり、書物、巷談によっては、 あたかも曹操が致命的な痛手を負ったかのように評される事もあるが、実際にどの程度の被害であったのか史書に 明確な記載はない(曹操自身は「病の流行で兵を引いたのに、周瑜に虚名を成さしめた」と語っている)。 ただし、この戦いに因って曹操の荊州の完全支配と江東の征服が挫折したのは事実である。 ・演義における赤壁 『三国志演義』における赤壁の戦いは以下の通りである。 『三国志演義』では、朱元璋が陳友諒の水軍を火計で打ち破ったハ陽湖の戦いをベースにしている部分があるので注意が必要である。 208年、華北を制した曹操が江南を平らげようと7月に50万の兵を率いて南下を開始した。 ちょうどそのころ劉表が亡くなり、劉jと後見人に付いた蔡瑁は、曹操に降伏してしまう。 曹操は荊州の兵を会わせ「百万」と号した。 諸葛亮の意見を取り入れず荊州を奪う事を諦めた劉備は曹操軍に追われ、 ひたすら南に逃げるが大量の領民を引き連れたために進軍速度が上がらず長坂坡で追いつかれてしまう。 この危機を趙雲と張飛の活躍で逃れると、夏口の劉gの下へ落ち延びる。 一方、江東に勢力を伸ばしていた孫権は、この報に驚き、文官武官を集めて、降伏するか戦うかの会議を始めた。 文官のほとんどは降伏を主張していたが、そのころ劉備の軍師だった諸葛亮が訪問し、魯粛も主戦論に偏っていたためにこれを利用し、孫権の説得を始める。 兄孫策の義兄弟でもある周瑜も後からやってきて主戦論を主張したために孫権は降伏派を一蹴し戦うことを決める。 このとき孫権は自分の机を刀で切りつけ、「これより降伏を口にした者は、この机と同じくなると思え」と言い放ち、開戦を宣言する。 当初、周瑜は魏に降伏する考えであったが、諸葛亮から曹操が作った詩で「二喬」(自分と義兄弟の孫策の妻)を欲しがっていると聞かされ、 怒って孫権に対して戦うようにと主戦論を主張した。 両軍は、長江に沿う赤壁で対峙した。 周瑜は大軍を有する曹操を相手にするには火計しかないと判断し、周瑜は計略を使い、荊州水軍の要である蔡瑁を謀殺する。 蔡瑁謀殺後に曹操の策によって偽りの降伏をしてきた蔡瑁の甥の蔡中・蔡和に対して偽情報を曹操軍に流させるなど大いに利用した。 そして、苦肉の計を用いて、黄蓋に偽の降伏を申し出させ曹操軍内に下らせた。 また、火計を効果的にするために、当時在野にいたホウ統を使い、曹操に対して船上ですぐに 酔ってしまう兵士達のためにと船同士を鎖でつなげる「連環の計」を進言し実行した。 問題は、当時の季節-10月には東南の風が吹かないと言う事だった。 この方向に風が吹かないと、火計を用いた場合自分達の水軍にも被害が下る恐れがあったのである。 諸葛亮は東南の風を吹かせると言い、祭壇を作り祈祷すると、 どこからか東南の風が吹く(民間伝承には、諸葛亮はこの時期に東南の風が吹く日があるのを初めから知っていたと言う話や ドジョウを使って東南の風を吹く日を知ったなどの話がある)。 機は熟したとばかりに黄蓋が藁を積んだ船に火をつけさせ火計を実行、 「連環の計」で互いの切り離しが間に合わない曹操軍の船は次々と炎上する。 更に東南の風で地上に配していた陣にも火が燃え広がり、曹操軍は散々に打ち破られた。 なお周瑜が自分を殺そうとしている事を察知した諸葛亮は、東南の風が吹いた直後にその風を利用して劉備の下へ逃げ去った。 一方、劉備軍は諸葛亮の指示の下、曹操の退却先に伏兵を置き、舞い込んできた曹操と残った軍に追い討ちをかけた。 しかし諸葛亮は「今曹操は天命がつきておらず、殺す事は不可能であろう」と判断し、曹操に恩がある関羽をわざと伏兵に置き、 あえて関羽が曹操に対し恩を返す機会として与え、関羽が曹操を逃がすのを黙認した。 こうして曹操は荊州の大半を手放さざるを得ず、以後劉備と孫権の係争地となる。 ・赤壁の位置について 赤壁の古戦場と伝えられる場所は、長江沿いに数カ所存在し、その是非については現在も議論があるが、有名なものは二箇所ある。 一つは、現在の湖北省蒲圻市西南の長江南岸に位置する赤壁山である。 ここは実際の古戦場として現在最も有力視され、「三国赤壁(別名、武赤壁)」と呼ばれている。 もう一つは、北宋の文人蘇軾(蘇東坡)が名作「赤壁の賦」を書いたことで有名な偽の赤壁である。 こちらは湖北省黄州市西北の長江北岸の赤鼻山を指し、「東坡赤壁(別名、文赤壁)」と呼ばれる。 この地は実際の戦場ではなかったのだが、晩唐の詩人杜牧が詩に詠んだことから赤壁の古戦場と見なされるようになり、 蘇軾の作品によって、実際の古戦場以上に有名になってしまった(ちなみに、杜牧・蘇軾の両者とも、 ここが実際の戦場でなかったことを承知の上で作品を書いたらしい)。 なお東坡赤壁は長江の流れが変遷したため、現在は長江に面していない。 (Wikipediaの赤壁の戦いの頁から参照) ● 合肥の戦い 魏の南方の要衝・合肥を巡って魏と呉の間で行われた戦い。 三国時代を通じてこの方面では攻防が続けられたがついにこの戦線の決着がつくことは無かった。 215年に起こった戦いが有名で、蜀の劉備が呉の孫権に荊州の一部返還を求めた際、 魏を攻めるように依頼したことから始まった。 孫権率いる呉の大軍が張遼を大将とする少数の魏軍に大敗を喫したことで知られている。 ・張遼来々 孫権はこの戦いで大将自ら中軍に属し、小師橋を渡り楽進の軍に迫った。 楽進は凌統を追い詰めるが、呉将甘寧の矢を顔に受け退却する。 すかさず孫権はそれを追う。そこに張遼、李典らが挟み撃ちを仕掛けるように攻撃した。 伏兵により士気低下した孫権の軍はすぐさま退いたが、既に渡ってきた橋は落とされていた。 窮地に陥った孫権に味方が馬を飛ばすように助言した。 孫権は言われたとおり馬を飛ばし、川を飛び越えて難を逃れることが出来た。 難を逃れた孫権だったが、既に大軍の呉軍は総崩れとなった。 そこに曹操率いる援軍が到着、戦の初めを想像させないような形勢逆転となり、魏軍は勝利した。 呉の武将甘寧が奇襲(濡須口の戦い)で一矢報いる。 この功により甘寧は「魏に張遼あらば、呉に甘寧あり」と称された。 が、ここでまた孫権が危うい状況に陥った。呉の武将周泰の決死の活躍により孫権は窮地を脱する。 その後孫権は曹操と和解した。 この戦いで張遼の名は江東に轟き、「張遼がくるぞ」と言えば幼い子供までもが 恐れたことから「泣く子も黙る張遼」と恐れられた。 また合肥の戦いは赤壁の戦い以前にも発生しており、 呉の武将太史慈が張遼の計略により戦死したともいわれている。 呉にとっては因縁深い戦場となった。 なおこの後234年にも呉は合肥城の後方に建設された合肥新城を三路より攻めるが、 明帝曹叡の親征によって苦戦。 さらには疫病が横行し、諸葛瑾率いる水軍が火計により敗走。莫大な量の船舶、兵糧を失った。 (Wikipediaの合肥の戦いの頁から参照) ● 潼関の戦い 211年(建安16年)に曹操と涼州の馬超・韓遂ら関中十部の連合軍が潼関で戦った戦い。 ・背景 涼州は、後漢の霊帝の末年ごろから羌族やテイ族の反乱が頻発し、 辺章や韓遂、王国などの諸将がこれに同調し、耿鄙や傅燮など 多くの官人が殺害されなど混乱状態にあった。 反乱軍同士の内紛も頻発し、やがて韓遂と馬騰の勢力が台頭する。 後漢朝は討伐軍をたびたび送るも、黄巾賊の残党や幽州の張挙、張純、益州の馬相、 荊州南部の区星、周朝らの反乱が各地で頻発し、また、霊帝の病没後の 政治的混乱(十常侍の乱や董卓の乱)もあって韓遂らを武力で制圧することはできなかった。 韓遂と馬騰は同盟関係にあったものの、やがて互いに争うようになり、 まもなくそれぞれが献帝を奉じた曹操に人質を差し出し帰順するようになる。 208年には張既の薦めにより馬騰は一族を引き連れて入朝し、代わって子の馬超がその軍勢を率いていた。 ・経過 曹操が漢中の張魯を討伐しようと攻めた際、この出兵を阻止するため 馬超が韓遂らと共に兵を挙げたことから始まった (出兵の目的が自分達の討伐のためと疑心暗鬼になったのか)。 馬超率いる西涼軍は大奮闘をみせたが、賈クの離間の計にかかった馬超は韓遂との仲が悪くなり、 韓遂は涼州に逃げ帰った。 それがもとで馬超は大敗する。先に入朝して在京していた馬騰ら馬超の一族は皆殺しとなった。 馬超は212年に韋康を殺害するなど、しばらく抵抗を続けたものの、 曹操軍の涼州討伐隊の司令官夏侯淵に討伐され敗北し、漢中の張魯に降るが、 やがて見切りを付け張魯の元を去り、成都の劉璋を攻めていた劉備に投降。 劉備と共に成都を攻め、益州(蜀)を手中にした劉備の客将として一生を終える。 他方、韓遂は羌族と組んで夏侯淵と戦うが敗れ、西の果て西平に逃れて病死した(殺害されたとも)。 曹操は馬超・韓遂両名の没落と前後して、夏侯淵ら諸将に命じて 楊秋や梁興といった関中十部の残党や独立勢力の宋建を下し涼州を平定し、 やがて漢中の張魯も降伏させ一時的に漢中を手中におさめるも、 まもなく漢中の支配権をめぐって劉備と争うことになる。 ・逸話 なお、潼関の戦いに従軍していた曹操の息子・曹植が、 洛陽を通過した際に友人へ贈ったのが「送応氏」、 曹丕が弟の無事を祈って詠んだのが「感離賦」である。 (Wikipediaの潼関の戦いの頁から参照) ● 夷陵の戦い 222年に夷陵(荊州西北部、現在の湖北省宜昌県)で 蜀漢皇帝劉備の親征軍を呉王孫権の武将陸遜率いる呉軍が打ち破った戦い。 三国志演義での決戦場が夷陵であったため一般的に夷陵の戦いと呼ばれているが、 戦場となったのは白帝城から夷道までの三峡全域である。 ・事前の経緯 208年の赤壁の戦いに於いて主要な活躍をした孫権の呉勢力であったが、 その後劉備が荊州を占拠、再三の引渡し要求に対しても北半分のみの譲渡に留まった。 このことに強い不満を抱いていた。 さりとて、大国魏に対して呉蜀の同盟を破棄するわけにもいかなかった。 劉備勢力はこの荊州を足がかりにして西の益州(四川)を獲得し、 北の曹操勢力に対抗する体勢を整えつつあった。 呉の国内でも親劉備派と反劉備派に分かれて意見が対立していた。 赤壁以後の政権を執っていた魯粛は親劉備派だったが、 魯粛の死後は反劉備派の勢力が強くなり、荊州を守備する関羽と対峙するように 呂蒙が派遣されることになった。 219年、この年は西で劉備が漢中を攻略し、さらにそれを援護するために荊州の守将であった 関羽は魏の荊州の拠点である樊城に対しての攻撃を行っていた。 (ただし劉備は漢中攻略後に漢中王に即位した後、魏延を抜擢して漢中の 守備をまかせて成都に帰還してしまったため、蜀全体の戦略としてはちぐはぐなものになっている。 関羽の独断専行による北進の可能性もある。) このことを好機と見た呂蒙は荊州侵攻作戦を開始し、関羽を捕らえて殺し、 荊州を領有することに成功した。 呂蒙はこの地を守護する任を受け、善政した。 この後、呂蒙・曹操ら関羽の死に関わった人物が次々と死んだために 「関羽の呪い」と噂されるようになり、後に関羽が関帝として崇められる一因となった。 この民間伝承は『三国志演義』にも採用されている。 ・夷陵の戦い 旗揚げ当時からの部下であり、兄弟同然だった関羽の訃報を聞いた劉備は 嘆き悲しみそして怒り狂い、呉への復讐を誓った。 正史では、先主伝、法正伝などにそのことが記され、魏の謀臣劉曄も、 劉備と関羽の関係の深さから、劉備の呉への出兵を予測している。 しかし、一国の君主の行動としては軽率すぎ、群臣の反対が挙がることとなった。 当事者の思いとは別に、客観的に見れば、荊州戦役で失って大きかったのは関羽では なくむしろ荊州そのものであり、蜀という国にとって荊州は魏国攻略の足がかりの地である。 また蜀駐屯の有力家臣や兵士達の故郷でもある。 したがって夷陵の戦いは国家存亡をかけた失地回復戦であったという見方もあり、 むしろ国家情勢を蜀という立場に従って見直すならこの見方のほうが理にかなっている。 このためか、天下三分の計の立案者である諸葛亮が、この出兵に反対したという記述は、 正史に見出せない。 ただしこの時点で諸葛亮は戦略の立案執行には関わっていない。 なお220年に魏の曹丕が後漢より禅譲を行い、皇帝となったために翌221年に劉備も皇帝となっている。 また同年張飛が部下の反乱により没する。 劉備は呉に対する侵攻作戦を宣言し、趙雲等の複数の人間による反対意見も聞きいれず、作戦を発動した。 一方の呉では関羽を殺した時から劉備と対立することになることは明白であり、 その対抗策として魏へ接近し、形式的に称臣することで劉備に対抗しようとした。 221年7月、劉備は親征軍を発した。侵攻に反対した趙雲を江州に留め置き、 魏軍にたいする牽制とし、呉班、馮習らを先鋒として、李異、劉阿、陸遜らが 防御していた巫城とシ帰城を続けて急襲し短期間の内にシ帰県までを制圧した。 さらに劉備自身も本隊を率いて進軍し、シ帰に駐屯し、呉班と陳式らに水軍を指揮させ 夷陵にまで先行させた。 この水軍はおとりでもあり劉備は陸上から伏兵を進めさせたが、この計略は陸遜によって見破られた。 222年に入り、気候が温暖となると劉備は更に侵攻を進める。 黄権はこれ以上侵攻すると撤退が困難であることを指摘し、自身が兵を指揮するから 劉備には後方にいて欲しいと主張したが、劉備は長江北岸の夷陵の戦線をその黄権にまかせると、 水軍を引き上げさせ、長江を渡渉し、先鋒は夷道にまで進み孫桓を包囲した。 孫桓は陸遜に救援要請を出したが、陸遜は蜀軍を破る計略があるとして救援を出さなかった。 この時点で陸遜の本隊は三峡内の全拠点を失い、後方には江陵があるだけという状況であり、 武昌に孫権がいるという状況を考えればかなり追い詰められていたことが伺える。 孫桓の夷道篭城は陸遜に反発した孫桓の分派行動であったようだ。 次いで劉備自身もコウ亭にまで進軍した。 さらに馬良を武陵に派遣し、異民族を手懐けさせ、これに沙摩柯らが呼応した。 この時劉備は補給線と退路を確保するために、後方に50近くの陣営を築き連ねていたが、 魏の曹丕はこれを聞いて「劉備は戦争を理解していない。必ず敗北する」と側近に語った。 ここまで劉備が猛攻を続け、陸遜はじわじわと押し込まれるという情勢が1年近くも続いていたため、 また陸遜が若輩であるということもあって、呉軍の諸将は勝手な行動を取り続けていて、 陸遜は剣を手にかけ軍権が自分にあることを改めて諸将に宣言し、 諸将は陸遜の命令にやっと服するというありさまであった。 6月、陸遜の猛反抗が始まる。陸遜はまず敵陣の一つを攻撃したが、成果を得られなかった。 しかしこの時蜀軍の陣営が火に弱いことを見抜いた。 陸遜は全軍に指示を出し総攻撃を開始し、 水上を急行し火計をもって40以上の蜀軍後方の陣営を陥落させた。 劉備は後方の陣営が落とされると馬鞍山まで撤退し陣を敷いたが、 呉軍はこれを四方から攻撃し蜀軍は大敗、潰走した。 その後孫桓等は蜀軍を並行追撃し次々に退路を遮断した。 この中で馮習や王甫、張南、傅トウ、馬良らが戦死し、 退路を失った黄権も魏に投降、軍船など兵器類は多数奪われた。 楊戯の季漢輔臣賛では、指揮官に任命されていた馮習一人に責任を負わせているが、 先帝である劉備を弁護する意図があると思われる。 劉備は救援の趙雲・馬忠らに助けられ辛うじて白帝城に逃げ込み、白帝城を永安と改名、ここに留まる。 蜀軍の被害は著しく、生き残ったのはわずかだったという。これにより蜀は荊州の拠点を全て失なった。 ・戦後 この戦いで意気消沈した劉備は白帝城で病死し、その後を劉禅が継ぎ、国事は諸葛亮に全てゆだねられる事になった。 呉ではこの大勝を機に再び魏の影響下から脱して独立色を明確にし、魏に対抗するようになる。 ・両軍の戦力について この戦いに参加した呉軍の兵力は、陸遜伝に5万と明記されているが、 蜀軍については、本文中には「大軍」とあるだけで明記されていない。 文帝記の註には、「劉備の支党4万人と馬2、3千頭が出てきました」と いう孫権からの上書が載せられている。 また蜀軍の被害は、「斬首したり投降してきたりした者は数万にのぼった」(呉主伝)、 「その死者は数万にのぼった」(陸遜伝)、「陸議はその兵8万余人を殺し」(劉曄伝註)とある。 呉領内の異民族も蜀軍に協力していることから、正規軍4万?に異民族の軍数万を加えて、 その兵力は5万〜10万程度だったと思われる。 ・三国志演義では 劉備が漢中を領有した翌年に死んでいるはずの老将黄忠が劉備に 「年寄りは役に立たぬ(この時劉備も六十代)」と馬鹿にされ、 敵に突っ込んでいき矢をうけ、その傷が元で陣没することになっている。 また、関羽の仇である麋芳、フ士仁、潘璋、朱然、馬忠らが張苞、関興らの手により 次々と戦死するが、これは全くの創作である。 他にも、劉備を追ってきた陸遜が、諸葛亮発案の石兵八陣にかかり進軍出来ずに途中で引き返し、 魏の攻撃に対処することになっている。 また劉備の率いる蜀軍の兵力は75万となっているが、 滅亡時の戸籍人口が94万(後主伝)の蜀にはとうてい無理な数字である。 (Wikipediaの夷陵の戦いの頁から参照) ● 街亭の戦い 228年、第一次北伐での魏と蜀の街亭での戦い。 張コウの率いた魏軍が馬謖の率いる蜀軍を破った。 この戦いで破れたことにより蜀の第一次北伐は失敗に終わる。 ・戦いの経過 祁山に進出した蜀軍の先鋒に任命された馬謖は、 諸葛亮の命により張コウの率いる魏軍に備えるため街亭に軍を進めた。 街亭において馬謖は張コウを迎え撃つため山に登って陣を構えるよう兵に指示した。 馬謖軍に属していた王平は山に水源がなく山を囲まれると兵が乾上ってしまうと 諌めたが馬謖は聞かず山上に軍を構えた。 街亭に到着した張コウは蜀軍の布陣を見ると、直ちに山道を防ぎ山上への水路を絶った。 水を絶たれた蜀軍が弱り士気が下がると、張コウは攻撃をしかけ蜀軍を大いに打ち破った。 蜀軍は敗走するが王平の率いる兵だけは踏み止まり軍鼓を打ち鳴らし魏軍を牽制しながら 整然と退却したので張コウは警戒し追撃を緩めた。 ・戦後 馬謖軍が街亭で敗れたことにより蜀軍は撤退を余儀なくされることになり、 蜀軍に降伏した天水、南安、安定の三郡も再び魏軍により平定された。 この街亭の戦いの敗戦の責任により馬謖は処刑(獄死の説もある)された。 これが有名な「泣いて馬謖を斬る」である。 (Wikipediaの街亭の戦いの頁から参照) ● 陳倉の戦い 228年、蜀と魏の陳倉での戦い。 蜀右将軍の諸葛亮の率いる大軍がカク昭、王生らが防衛する寡兵の陳倉城を包囲したが 落城させることができなかった戦い。 ・事前の経過 228年、第一次北伐においては街亭で蜀軍先鋒馬謖を張コウが打ち破ったため、 蜀軍は雍州から撤退したが、魏の大将軍曹真は再び諸葛亮が北進すること、 その際に陳倉道を使用するであろうことなどを予測し、 カク昭に命じ陳倉城の築城を進めさせていたが、 兵力自体は僅かに千人あまりしか配置させることができなかった。 さらに同年8月、石亭に置いて魏の曹休が孫権の仕掛けた謀略に嵌り陸遜らが指揮する軍に大敗した。 ・戦いの経過 12月、諸葛亮は漢中より数万の軍勢を率いて出撃し、 曹真の予測通り陳倉道を北上し陳倉城を包囲した。 諸葛亮は衝車を始めとした各種の攻城兵器を用いた攻撃をしかけたり、 トンネルを掘ったり、カク昭と同郷の人間を使ってカク昭を説得するなど各種の攻勢を試みたが、 カク昭はよく防衛して陳倉城はなかなか落城しなかった。 魏は陳倉城へ張コウ、費耀らを援軍として派遣したが、 張コウは出陣に先立って、陳倉城の防衛の堅さと蜀軍は 食料をあまり携帯してきていないことを指摘して、 援軍到着前に諸葛亮が撤退することを予測した。 果たして諸葛亮は食料が尽きたので陳倉攻撃を諦め撤退した。 この時追撃にあたった魏の将軍王双は蜀軍の反撃を受け敗死した。 (Wikipediaの陳倉の戦いの頁から参照) ● 五丈原の戦い 234年に蜀と魏が、現在の陝西省渭水盆地付近の五丈原に於いて対陣した戦役を云う。 ・事前の経緯 諸葛亮は231年第四次北伐に置いて、司馬懿と対戦し戦術的には一度大勝を得ながら司馬懿を潰走させることはできず、 大雨などが原因で李厳が食糧輸送に失敗し食糧が尽きたため諸葛亮は軍を収めて撤退した。 ここまで蜀は第一次北伐から連年数万規模の軍を出撃させており、蜀の国力はかなり疲弊していた。 司馬懿などはこの蜀の窮乏を見抜き三年程は諸葛亮は民政に専念しなければならないであろうと予測していた。 ・戦いの経緯 234年諸葛亮は大軍を根こそぎ動員して出撃した。 蜀の滅亡時の兵力は10万あまりであり、それ以前に姜維が犠牲の大きい戦いを続け、 さらにケ艾相手に連敗したことや、諸葛瞻の軍が綿竹において壊滅したことなどを考慮にいれるとこの時諸葛亮が 率いていた軍は10万前後の兵力であったと推測される。 諸葛亮は斜谷道を通って進軍し祁山を素通りするとさらに進撃を進めた。 司馬懿は諸葛亮の積極攻勢に危機感を示したが、諸葛亮は五丈原で進撃を止め陣を敷き、 これを聞いた司馬懿は諸将に対し、「これなら組し易い」と語った。 諸葛亮はこの地の農民に兵を交じらせ屯田を行ったが、軍規が厳正であったので兵士たちは農民たちに歓迎された。 司馬懿は大軍を率いて五丈原に向かい、両軍は五丈原を望む地で対陣した。 諸葛亮はさまざまな手を使って司馬懿を侮辱、挑発したが司馬懿は挑発に当初乗らなかった。 しかし司馬懿は諸葛亮攻撃を決意し、全軍に出撃命令を出したが、辛ピが皇帝曹叡の命令を携え陣を訪問し司馬懿に出撃してはならないと命じた。 辛ピが現れたことを聞いた姜維は司馬懿が最早絶対に出撃してこないであろうと予測し 失望感を露にし(このことから蜀軍は迎撃戦を戦術面での核にしていたことが伺える)、 諸葛亮はそもそも司馬懿が出撃の姿勢を示したこと自体が諸将に対するポーズであったという分析を示したが、 一連の出撃に関する司馬懿の発言は史料には無く諸葛亮の分析が的を得ていたのかどうかは分からない。 この時期呉の皇帝孫権が自ら大軍を指揮して複数方面からの合肥攻撃を開始した。 魏は国土の東西に大規模な戦線を抱え込むこととなったが、合肥方面の防衛に関する指揮を総轄していた満寵はよく守って耐え、 皇帝曹叡自らがこの方面に出撃すると、曹叡の寿春到着を待たずに孫権は全軍を撤退させた。 蜀軍と魏軍の対陣は100日あまりに及び諸葛亮が病死し蜀軍は撤退した。 魏軍は蜀軍を追撃しようとしたが蜀軍は反撃の形勢を示し、司馬懿は慌てて軍を退いた。 この事を聞いた民衆は「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」などと諺を作ったが、 司馬懿は「私は生者を相手にする事は得意だが、死者を相手ではどうにもならない」 (論語の一節、「未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん」に基づいた発言と見られる)と発言した。 司馬懿は蜀軍の陣営を視察し諸葛亮について「天下の奇才」であるという感想を漏らした。 その後蜀軍内で諸葛亮の後継を巡った内紛が起こり、魏延と楊儀が争い魏延が敗死した。 (Wikipediaの五丈原の戦いの頁から参照) ● 段谷の戦い 256年(蜀の延熙19年、魏の甘露元年)に行われた蜀と魏の戦い。 ・戦前 費イの死後、蜀の衛将軍姜維は大軍を率いての北伐を開始した。 253年(延熙16年)、武都より進撃して南安に篭る陳泰を包囲したが、兵糧が尽きて撤退する。 翌254年(延熙17年)には隴西へ出撃し、狄道県の李簡が密かに降伏を願い出たのを 皮切りに魏の将徐質を破るなどの戦果を挙げ、 河関・狄道・臨トウの三県の住民を蜀に連行した。このとき張嶷が陣没している。 さらに翌255年(延熙18年)には車騎将軍夏侯覇とともに狄道に進出し、 トウ水の西で雍州の刺史王経を撃破して魏兵数万人を殺した。 王経は狄道城に逃げ、姜維はそれを追う。 蜀の鎮南大将軍張翼は「追撃すべきではない」と言ったが姜維はこれを聞き入れず狄道城を包囲した。 しかし魏の征西将軍陳泰が救援を率いてきたので退却した。 ・段谷の戦い 魏では前年の敗北の損害が大きく、危機的な状況にあった。 皇帝曹髦はケ艾を安西将軍に任命し、雍州・涼州諸方面を固めるよう命じた。 ケ艾は姜維の行動を先読みし再び北伐すると考え兵を鍛錬し、守りを固める。 一方蜀は、姜維が大将軍に就き、鎮西大将軍胡済と連繋して上ケイで合流し、魏を破る計画を立てる。 だが、肝心の胡済が現れず、さらにケ艾に動きを読まれたために攻勢は失敗し、 姜維は退却するも追撃を受け、段谷で散々に打ち破られる。 なお、三国志演義などでは張嶷はここで陳泰に討ち取られたことになっている。 このとき魏は2桁にのぼる将を斬り、4桁の兵の首級をあげたといわれる。 すなわち蜀は精鋭の外征軍とそれを率いる優秀な部隊長の多くを失ったのである。 ケ艾はこの働きで鎮西将軍に昇進した。 ・戦後 戦いに敗れた蜀は西方で離叛が相次ぎ、姜維は諸葛亮に習い失策を認めて降格を願い出、後将軍となった。 だが、合流地点に到着しなかった胡済については何の責任も問われていない。 その後は翌年諸葛誕が反乱を起こすと姜維は再び軍勢数万を率いて北伐を行った。 このとき魏軍は大将軍司馬望が守備を固め、ケ艾が援軍を率いてきた。 さらに次の年になって諸葛誕が敗れると蜀軍は戦わず撤退し、姜維は大将軍に復帰している。 この年、姜維は漢中の防衛について建議し、秦嶺山脈の諸陣地の守備隊を漢城・楽城まで下げ、 敵を深く侵入させて撃滅する作戦をとり、胡済を後方に下げた。 (Wikipediaの段谷の戦いの頁から参照) |