■ 出師表

・蜀の諸葛亮が南蛮夷平定戦を終えた後、建興5年(227年)、 魏の北伐を開始する時に劉禅に奉った文書のこと。(前出師表)
・古来この文は、名文中の名文であるとされており、 「これを読んで涙を流さぬ者は人にあらず」とまで言われている。
三国故事成語の「危急存亡の秋」も、この出師表の中にある言葉である。
・前出師表と後出師表があり、前出師表が最も有名で、 後出師表は建興6年(228年)に書かれたものとされるが、 正史三国志の中にこの記載がないため、後世の偽作であろうとも考えられている。
・ここでは前出師表のみ採り上げて紹介します。

● 前出師表の内容

諸葛亮が北伐(魏への遠征)に出発する前に、国に残す若い皇帝劉禅を心配して 書いたという前出師表の内容は次の通りである。

まず、現在天下が魏・呉・蜀に分かれており、 そのうち蜀は疲弊していることを指摘した。
その後、そういった苦境にもかかわらず、蜀という国が持ちこたえているのは、 人材の力であるということを述べ、皇帝の劉禅に、人材を大事にするように言った。

諸葛亮はさらに、郭攸之(かくゆうし)・費イ(ひい)・董允(とういん)・向寵(しょうちょう)と いった面々の名をあげ、彼らはよき人材であるから、大事にしなくてはならないと言い、 あわせて、漢の衰退の原因は、よい人材を用いず、くだらない人間を用いていたからだとも指摘した。

最後に、自分が単なる農民に過ぎなかったのに、先帝である劉備が3回も訪れて自分を登用してくれたことに とても感謝していると述べ、この先帝の恩に報いるために、自分は中原に進出し、 逆賊たる魏王朝を破り、漢王朝を復興させようとしているという決意を述べた。
この恩に報いる時の感激に、諸葛亮は、出師表の最後の文で、次のように述べている。

「臣不勝受恩感激。今当遠離臨表涕零不知所言。 (大意:わたしは恩をうけたことの感激にうちかつことができません。 いままさに遠く離れるにあたり涙をながし、ことばもありません)」 

(Wikipediaの出師表の頁から参照)

● 前出師表本文

参考する文献によって多少の違いがありますが、大まかには以下のようになります。

臣亮(臣下の諸葛亮)もうす、
先帝(劉備)創業未だ半ならずして中道に崩姐(亡くなる)せり。
いま天下は三分し、益州は疲弊す。これ誠に危急存亡の秋なり。
しかれども侍衛の臣(官中の官吏)、内に懈(おこた)らず。
忠志の士、身を外に忘るる(身の危険を忘れても戦う)ものは、
蓋(けだ)先帝の殊遇を追うてこれを陛下に報いんと欲するなり。
誠に宜しく聖聴を開帳(広く臣下の言葉を聞く)し以て先帝の遺徳を
光らかにし、志士の気を恢弘(かいこう・ひろげて大きくする)すべし。
宜しく妄りに自ら非薄(ひはく・得が少ないと卑下)し、喩(たとえ)を
引き義を失い以て忠諫の路を塞ぐべからず。
宮中府中(宮廷と行政府)は倶(とも)に一体となり、
陟罰(ちょくばつ・官位をのぼせることと罰すること)
臧否(ぞうひ・よしあし)するに宜しく異同あるべからず。
若(も)し奸を作(な)し科(とが)を犯し、及び忠善をなすものあらば、
宜しく有司(役人)に付してその刑賞を論じ、
以て陛下平明の理を昭(あきらか)にすべし。
宜しく偏私(へんし・不公平)して内外をして
法を異(こと)にせしむべからざるなり。
侍中侍郎の郭攸之(かくゆうし)・費イ(ひい)・
董允(とういん)等は、これ皆(み)な良実にして志慮忠純なり。
是(ここ)を以て先帝簡抜(選抜)して以て陛下に遣(のこ)せり。
愚(自分のこと)、以爲(おもえらく)、宮中の事は事大小となく 
悉(ことごと)く以て之に咨(と・相談し)い、然る後に施行せば、
必ずよく闕漏(けつろう)を稗補(ひほ)し(欠点や手落ちを補って)
広益するところあらん。
将軍の向寵(しょうちょう)は性行淑均(しゅくきん・善良で公平)、
軍事に暁暢(ぎょうちょう・精通)し、昔日に試用せられ、
先帝これを称して能(のう・才能がある)と曰(い)えり。
ここを以て衆議、寵を挙げて(推薦して)督(とく・最高司令官)となす。
愚、以爲(おもえら)く、営中の事、事大小となく、
悉く以ってこれに咨(はか)れば、必ずよく行陣をして和睦し、
優劣をして所を得しめんと。
賢臣を親しみ小人を遠ざけしは、これ先漢の興隆せし所以(ゆえん)なり。
小人を親しみ賢臣を遠ざけしは、これ後漢の傾頽(けいたい・傾き崩れる)せし
ゆえんなり。先帝在(いま)しし時、臣とこの事を論ずる毎(たび)に
未だ嘗(かつ)て桓霊(かんれい・後漢の桓帝と霊帝)に歎息痛恨せずんばあらざりき。
侍中(郭攸之、費イ、董允)、尚書(陳震)、長史(張裔)、参軍(蒋エン)は
これ悉く貞亮(ていりょう)にして死節の臣なり。
願くば陛下これを親しみこれを信ぜよ。即ち漢室の隆(さかん)なること
日を計(かぞ)えて待つべし(時間の問題である)。
臣、本(もと)布衣(ふい・仕官しない平民)にして、
躬(みずか)ら南陽に耕し、荀(いやしく)も性命を乱世に全うせんとして
聞達(ぶんたつ・出世)を諸侯に求めず。
先帝、臣の卑鄙(ひひ・卑しい者)なるを以てせず(問題にせず)、
猥(みだり)に自ら枉屈(おうくつ・身をかがめて)して三たび臣を草廬の中に顧み、
臣に諮(はか)るに当世の事を以てす(世の中をどうすべきかと問うた)。
是(これ)に由(よ)りて感激してついに先帝に許すに
駆馳(くち・人のために奔走する)を以てす。後、傾覇(けいは)に値(あ)い、(当陽、
長坂での敗北)任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず(呉へ赴き孫権を説得した)。
爾来二十有一年なり。先帝、臣の謹慎なるを知る。
ゆえに崩ずるに臨みて臣に寄するに大事を以てせり(劉禅の補佐を依頼した)。
命を受けてより以来(このかた)、夙夜(しゅくや・あさばん)憂歎(ゆうたん)し、
託付の效あらずして以て先帝の明を傷(そこな)うことを恐る。
故に五月(建興三年五月)、瀘(ろ)を渡りて深く不毛に入りぬ、(瀘水を渡って
南蛮へ入った)。今、南方すでに定まり、兵甲すでに足る。
まさに三軍を奨率し、北のかた中原(魏の国)を定むべし。
庶(こいねが)わくば駑鈍(どどん)を竭(つく)し奸凶(奸悪な曹氏)を
壤(はら)い除き、漢室を興復し旧都(長安と洛陽)に還さん。
これ臣が先帝に報いて、しかして陛下に忠なる所以の職分なり。
損益を斟酌(しんしゃく)し忠言を進め尽すに至りては、
則ち攸之(ゆうし)、イ(い)、允(いん)の任なり。
願わくば陛下、臣に託するに討賊・興復の効(大任)を以てせよ。
効あらずんば則ち、臣の罪を治め以て先帝の霊に告げよ。
もしコを興す言なくんば即ち(「文選」により補った)攸之(ゆうし)、
イ(い)・允(いん)らの慢(おこたり)を責めて以てその咎(とが)を
彰(あらわ)せ。陛下もまた宣しく自ら謀りて以て善道を諮諏(ししゅ)し、
雅言(がげん・正しい言葉)を察納(よく調べ、意見を聞き入れる)し
深く先帝の遣詔を追うべし。
臣、恩を受くるの感激に勝(た)えず。今、まさに遠く離るべし。
表に臨みて(この表を書くに当たって)涕(なみだ)零(お)ち、
言う所を知らず。
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