■ 三On関連用語集

・ゲーム内で登場する三国志に関連する項目の、簡単な解説です。
・「三国志」そのものの研究、事典サイトは数多くあります。
より詳しい知識を求めるなら、そちらを探してみるとよいでしょう。

● 地名

泰山(たいざん):中国東省泰安市にある名山。高さは1,545m(最高峰は玉皇頂と呼ばれる)。
封禅の儀式が行われる山として名高い。
主に東嶽大帝・碧霞元君・眼光■■を祭っており、広く信仰されている。
その人気は普陀山の観音信仰と比せられる程で中国大陸での人気を二分している。
※■=「女へんに乃」

廬山(ろざん):中国江西省九江市にある名山。
廬山自然公園としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
古来より名勝として知られ、多くの詩人に歌われている。
最近では毛沢東ら中国共産党高官が山荘を構える避暑地でもあったという。

黄河(こうが):中国の北部を流れる川。全長約5,464kmで中国では2番目に長い。
河や江という漢字は本来固有名詞であり、中国で単に「河」と書いたときは黄河を指す。

長江(ちょうこう):中国大陸の華中地域を流れる川。中国で最長の川で世界でも第3位。全長6,300km。
「河」が黄河を指すのに対し、単に「江」と書いたときは長江(揚子江)を指す。

荊州(けいしゅう):現在の中国湖北省南部にある都市(地級市)。 長江の中流に位置する港湾都市にあたる。
当時の中心都市・江陵は現在荊州市内に「荊州古城」として残っており、 三国時代には度々この領土を巡って合戦が繰り広げられた。 現在は国家歴史文化名城に指定されている。
なお水鏡先生こと司馬徽(しばき)は三国志に登場するが、 水鏡先生が村長である水鏡村は架空の村である。
また公式のブログではこのように解説が載せられている。

司隷(しれい):司州とも呼ばれ、首都洛陽・長安を含む州。長官は司隷校尉。
中国・漢代に都が置かれた長安・洛陽及び、その周辺一体の行政を監督した司隸校尉の管掌地域の通称。
京兆尹(長安)・河南尹(洛陽)と河内郡 ・河東郡 ・弘農郡・馮翊郡・扶風郡の5郡で構成されたという。

豫州(よしゅう):現在の中国河南省東部〜安徽省北部を中心とした地域。
三国時代では魏がこの地域を支配していた。
また公式のブログではこのように解説が載せられている。

楊州(ようしゅう):現在の中国の「揚州市」。唐代に表記が「楊州」から「揚州」に変わった。
昔から交通の要所であり、唐代にはすでに国際港としての位置づけになり交易が発展、中国にとっても非常に重要な都市であった。
文化人も多く排出しており、中国文化においても語るに外せない都市である。
三国時代では呉がこの地域を支配していたが、 南部が山岳地帯であるために、人も物資も北部に集中していたという。
しかし楊州は中国南部の要衝地帯であり、 晋滅亡後に建国された東晋は、楊州を本拠地としている。
また公式のブログではこのように解説が載せられている。

益州(えきしゅう):険しい山々に囲まれた天然の要害であり、 また土壌は豊かで多くの産物がある。
三国時代では蜀がこの地域を支配しており、 諸葛亮はこの地での建国を以って天下三分と説いた。

涼州(りょうしゅう):漢代に置かれた13の州の1つで、現在の甘粛省から青海省の一部にかけての地域にあった。 現在では甘粛省の別名になっている。
涼州は北西に邪を向けたような地勢をみせ、 北は匈奴、南は西羌と隔たり、西は西域へ通じるシルクロードが伸びており、 古来より大陸東西の交易路として、その歴史を刻んできた。
蜀の馬超とその一族の出身であり、董卓、郭らも涼州の出身である。
ゲーム内では中立都市という扱いになっている。

● ダンジョン

石林(せきりん):中国読みでは「シーリン」。
「雲南石林カルスト」は中国の観光地として有名。2007年6月27日に世界遺産登録された。
中国で第6番目、世界で第34番目、雲南で第3番目、昆明では第1番目の世界遺産となるらしい。
深く、鋭く尖った浸食による高く大きい石灰岩が連なり、カルスト特徴のモデル地域である。
厳寒も酷暑もない気候にも恵まれていることから、自然の風光、民族の習俗、レジャー観光、学術調査にうってつけらしい。

吐糸洞(としどう):該当するモデルが中国になく、三国志Onlineオリジナルであると思われる。
(吐糸洞の元ネタと思われるものがありましたらご報告下さい)

陵墓(りょうぼ):天皇、皇帝の墓のこと。日本でいう「天皇陵」にあたる。
かつて董卓が遷都する際、陵墓を掘り荒らし、金銀財宝を略奪したといわれる。
その後、孫堅(孫策・孫権の父)がそれを復興した。
この功績は、後世の専門家たちの孫堅への評価を押し上げる一因となった。

● 都市

長安(ちょうあん):三国当時の大都市。董卓が強引に遷都させ、 首都がおかれ帝がおわす都であった。
その後は魏が支配していたような状態である。 日本の平城京・平安京は長安城をモデルにしたといわれている。

許昌(きょしょう):魏の本拠地。現在の中国、河南省にある都市。天下の3分の2を手にした曹操は普段、ここを拠点とした。

建業(けんぎょう):呉の本拠地。現在の中国、南京付近にあたる。三国時代の後に建康(けんこう)という名称に変更された。

成都(せいと):蜀の本拠地。現在の中国、四川省の省都であり、副省級市。 歴史的遺産が豊富にあり、三国の時代を経て現在も栄え続ける都市。

● 魏武将

曹操(そうそう):字は「孟徳(もうとく)」。沛国ショウ県の人。
言わずと知れた魏の王。君主でありながら武力も相当なものだったという。
黄巾の乱にて出兵、反董卓連合軍の参戦など、 時代の節目には必ずその姿があった。
後漢の人物批評家である許劭をして、曹操を「治世の能臣、乱世の奸雄」と評したというのはあまりに有名。

夏侯惇(かこうとん):字は「元譲(げんじょう)」。豫州の沛国県の人。
曹操の拳兵時から付き従う歴戦の猛将で、曹操の従兄弟。
左目の眼帯は、呂布を攻めた際に流れ矢に当たり負傷したものである。
曹操が最も信頼した武将であり、家臣では唯一、曹操の寝室への自由な出入りを許したという。
(寝室に通せば寝首をかかれてもおかしくないため、よほどの信頼関係がないと許されない)
曹操の死後、後を追うように病死したという。

夏侯淵(かこうえん):字は「妙才(みょうさい)」。
曹操の拳兵時から付き従う武将で、曹操と夏侯惇の従弟にあたる。(演義では夏侯惇の弟)。
銅雀台落成の余興にて、的に当たった4本の矢の真ん中を射抜く腕前を披露し、 そこから弓の名手として知られるようになった。
魏の名将であったが、定軍山の戦いにおいて蜀の黄忠に討ち取られた。

張遼(ちょうりょう):字は「文遠(ぶんえん)」。雁門郡馬邑県の人。
元は呂布配下であったが、関羽の言によって斬首を免れ曹操配下となった。
合肥の戦いにおいて呉軍をよく退け、その名を聞けば泣く子も黙ると言われたほど恐れられたという。
関羽とは勢力は違えど、友人関係である。

徐晃(じょこう):字は「公明(こうめい)」。河東郡楊県の人。
曹操の信頼厚い武人であり、 功績を挙げても奢る素振りは見せず、部下には親身に接したために人望が厚かったといわれる。
関羽とは勢力は違えど、友人関係である。

司馬懿(しばい):字は「仲達(ちゅうたつ)」。河内郡温県孝敬里の人。
諸葛亮のライバルとして描かれることが多い。晋の建国に関わった重要人物の1人。
苛烈な性格であったが感情を隠すのがうまく、野心家としても描かれる。

許チョ(きょちょ):字は「仲康(ちゅうこう)」。
曹操の身辺護衛を勤めた猛将。 慎み深く、誠実かつ重厚で無口な性格であったという。
力が虎のようで、ただ痴(頭の回転が鈍い)であったので、「虎痴」と呼ばれていた。

● 呉武将

孫策(そんさく):字は「伯符(はくふ)」。呉郡富春の人。
呉の孫堅の長男。周瑜とは義兄弟であり、非常に信頼厚かった。
容姿端麗で、人との会話を好み闊達な性格であったと言われ、 江東一帯を瞬く間に収め「小覇王」の異名を持った。
太史慈と一騎打ちして互角であったほど、武力にも優れていたという。

孫権(そんけん):字は「仲謀(ちゅうぼう)」。
孫堅の次男。孫策の弟。孫策亡き後、呉の王となり、君主としては最も長命であった。
孫策曰く「攻める能力は私に劣るが、護る能力は私を凌ぐ」とあり、 孫権は言葉どおりよく呉国を護った。

孫尚香(そんしょうこう):孫策、孫権の妹にあたり、後に「孫夫人」と呼ばれ劉備の妻となる。
気が強く、身の回りには常に武装した侍女達が付き、自身も薙刀と弓を持っていたことから 「弓腰姫」とも呼ばれていた。

周瑜(しゅうゆ):字は「公瑾(こうきん)」。揚州廬江郡の人。
孫策とは義兄弟であり、互いによく信頼していた。
容姿端麗で芸術にも秀でていたため「美周郎」の異名を持った。
赤壁の戦いでは呉の総司令として赴き、魏を相手に大勝をあげた。
その智謀は味方からは慕われ、敵からは大いに恐れられた。劉備や曹操も周瑜を呉から引き離そうと画策したほどである。
孫策と共に早世が悔やまれる人物であり、彼らが長命であれば三国時代の歴史が大きく変わったであろうといわれる。

陸遜(りくそん):字は「伯言(はくげん)」。呉郡呉県の人。
呂蒙の推挙により召抱えられた人物で、後に呉の大都督となる。
呂蒙が関羽を攻める際に献策をしたり、夷陵の戦いでは劉備相手に大勝する活躍をみせた。

太史慈(たいしじ):字は「子義(しぎ)」。青州東莱郡黄県の人。
武勇に優れ、義に厚い猛将。
孫策にその人物を見出され、自らもまた兵を集め馳せ参じた。
合肥の戦いで張遼と戦い、死亡したとされている。

甘寧(かんねい):字は「興覇(こうは)」。益州の巴郡臨江県の人。
鈴を常に携えていたので「鈴の甘寧」という異名を持つ。
合肥では張遼の急襲を防いだ後、逆に夜襲を仕掛け魏軍を震え上がらせた。
孫権はこれを見て「孟徳(曹操)には張遼がいて、私には甘寧がいる。丁度釣合が取れているな」と賞賛したという。

● 蜀武将

劉備(りゅうび):字は「玄徳(げんとく)」。
「桃園の誓い」により義弟の張飛、関羽とは揺ぎ無い信頼関係で結ばれている。
前漢の中山靖王・劉勝の末裔と称され、筵織りから一国の君主にまで上り詰めた人。
放浪生活が長らく続いたが、諸葛亮を得た事が転機となり、やがて蜀という国を建国し、王となった。
その仁徳あふれた政治に、民は喜んだという。

趙雲(ちょううん):字は「子龍(しりゅう)」。常山郡真定県の人。蜀の五虎大将軍の1人。
槍の名手として知られ、劉備から「子龍は一身すべて肝だ」との評価を受けるほどの名将。
長坂ではただ1駒、曹操軍の中に飛び込み、劉備の子「阿斗(あと)」を救い出したという話は有名。

関羽(かんう):字は「雲長(うんちょう)」。司隷・河東郡解良の人。蜀の五虎大将軍の1人。
劉備の義弟、張飛の義兄であり、「桃園の誓い」により揺ぎ無い信頼関係で結ばれている。愛用の武器は「青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)」
華雄、顔良、文醜などの猛者を軽々と討ち取るほどの武力があり、 一時は曹操の元に身を寄せたが、劉備の生存を聞きその夫人を護りながら門番を切り捨ててまで舞い戻ったと言われるほど義に厚い。
見事な鬚髯をたくわえていたため、帝から「美髯公」と呼ばれたという。
義を重んじる人であるが、自尊心が高く、同格の士大夫を見下すという悪い癖を持ち、それが災いすることもあった。
また算盤(そろばん)を開発したという伝説もある。

張飛(ちょうひ):字は「翼コ(よくとく)」もしくは「益コ(えきとく)」。生年不詳-221年。の人。蜀の五虎大将軍の1人。
劉備、関羽の義弟であり、「桃園の誓い」により揺ぎ無い信頼関係で結ばれている。愛用の武器は「蛇矛(だぼう)」
関羽を凌ぐほどの武力を持つといわれ、徳川の名将、本多忠勝は「日本の張飛」と評されたという。
特に長坂での戦いで、たった1駒で橋にて仁王立ちし、一喝して曹操軍を退けたのは有名な話である。
だが乱暴者で酒癖が悪く、それが災いして失敗することも少なくなかった。

諸葛亮(しょかつりょう):字は「孔明(こうめい)」。琅邪郡陽都が本貫だが出生地は不明。
言わずと知れた三国時代で最も有名な天才軍師である。政治家・軍略家としても名高い。
孔明に関するエピソードは数多くあり、「三顧の礼」「泣いて馬謖を斬る」「死せる孔明、生ける仲達を走らす」などの 故事は有名。

馬超(ばちょう):字は「孟起(もうき)」。扶風郡茂陵県の人。蜀の五虎大将軍の1人。
若い頃から確かな武力を持ち、その雄姿から「錦馬超(きんばちょう)」という異名を持つ。
親兄弟を曹操に殺され、その復讐戦では味方の裏切りにあい敗走。 その後、張魯を頼って落ち延び、最終的に劉備に下る。
史実では際立った功績はないものの、その武名は轟いており、 羌族は馬超を恐れて蜀を攻めなかったといわれている。

黄忠(こうちゅう):字は「漢升(かんしょう)」。生年不詳-220年。荊州北部の南陽郡の人。 蜀の五虎大将軍の1人。
高齢となってから蜀に使えたが、老いてなお勇猛果敢な武をもって、若い衆を鼓舞した。
それが転じ、老いてますます盛んな人の事を老黄忠と呼ぶようになったのだとか。
特にその弓術はずば抜けており、 100発100中の腕前であったという。

● その他人物

水鏡先生(すいきょうせんせい):本名は「司馬徽(しばき)」。中国後漢末期の人、生没年不詳。 潁川郡の人。字は徳操。号は水鏡。
「よしよし」が口癖で、何を聞かれてもそう答えていた。ゲーム内では「よいぞよいぞ」となっている。
人物鑑定家として有名であり、劉備に「伏龍とは諸葛亮、鳳雛とはホウ統のことである」と伝えたとされている。
劉備はこれを聞き、仁の世のため臥龍もしくは鳳雛を得ようと尽力する。
後に三顧の礼をもって諸葛亮を迎え、水魚の交わりと呼ばれるほど彼を信頼することになる。
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